無意味な本棚整理をしていた紫苑が、奥の棚に行ったまま帰ってこない。本を何冊か抱えたまま忙しなく移動していたはずだけど、いつの間にか音もしなくなっていた。かといって棚が崩れた様子もない。俺は十分ほど静かな空間を堪能していたが、何となく思い付きで体を起こした。自分の部屋の奥に抜け穴なんてあっただろうか、とかいう無駄な想像をしつつ、薄暗い部屋を歩く。
紫苑の真っ白な髪は暗い中でも妙に目立つ。抜け穴がないことと棚が崩れ落ちてないことに安心しつつ、突っ立ったままの人間に声をかけた。
「手が止まってんぞ?」
「うおっ!?」
びくびくびくっ、と大袈裟に驚いて、紫苑はこちらを振り向く。勢いがよすぎて肩にいたネズミが振り落とされたくらいだ。俺の方が逆に驚くんですけど。
目を歪めつつ、俺は紫苑の手にある本を見る。どうやらあれを読んでしまって、掃除に手が付かなくなったらしかった。前の時もそうだったよな、と思いつつ、三歩ほど近付いてタイトルを確認する。しかしその前に、紫苑自らその本を突き出した。
「ねっねっネズミ!この手の本は簡単に見付かるところに置いちゃいけないと思う!」
「はぁ?」
何だその妙な物言いは気持ち悪い。紫苑の手から本を取り上げて中身を確認する。あーはいはい、なるほどね。
「アル中のおっさんとこが出してるみてえな雑誌か」
「おおおお奥にも一杯ありました!」
「ああ、まあ適当に本集めてるしな。そういうのも紛れ込むだろ」
何がそんなに恥ずかしいのか分からないが、紫苑の顔は耳まで赤くなっていた。こんな裸の女が戯れてるような雑誌、いくらでもあるし珍しくもないしむしろまともな部類に入る。写真に撮られているという時点である程度綺麗にまとめられているんだから、これで赤面してたらこの部屋から一歩も外に出られないだろうに。
そもそも純粋培養だった四年前とは違って、つい最近まで下町で暮らしていたはずなのだ。「そういうもの」に触れる機会がなかったとは思いにくいんだが、こいつはよっぽど友達がいなかったんだろうか?そう思うとさっきまでの気持ち悪さとか妙なイライラが消えて、俺はつい優しく微笑んでしまう。
「かわいそうにな、紫苑」
「は?何で僕がかわいそうなのさ」
「お戯れを、陛下。下賎の者のご冗談には付き合い切れますまい」
頭の上でハテナを連発している紫苑に取り上げた雑誌を返却し、俺は図書係から離れてまた静かな空間に戻ることにする。友達がいなかったどうの、なんてことはあの天然さんにとっては大したことじゃないのかもしれない。西ブロックじゃ「友達」なんて口に出せば声を上げて笑われるだろうし、壁の中に友人がいたとしても何の助けにもならない。今ここで俺に憐れぶまれている紫苑を助けにやってくることはできない。
憐れみの謎から脱したらしい紫苑は、今度は何を吹っ切ったのか俺に突き出した雑誌を山ほど抱えて戻ってきた。整理するのか読むのか捨てるのか。そのどれかだろうと思っていたら、一応の予想通り整理している。目付きは真剣だが本の内容を吟味しっるわけではなさそうだ。俺は寝返りを打って、司書気取りさんから目を離した。さっきまではやんでいた人が移動するパタパタという音がする。整理するのはいいけど、他に置く場所なんてないだろうに。
人が側にいるはずなのに妙に眠い。部屋は暖かくないし毛布だって被ってない。薄暗い部屋だけどすぐ側のテーブルにランプがある。いや、そのランプは消されている。あれ?と思うが頭がうまく働かない。どうやら俺は暗闇に目が慣れすぎていて、明かりがあろうがなかろうが関係なくなってしまったらしい。あれ?ついでに、体が動かない。金縛りだろうか。足が浮いている感覚もない。いや、違う、首だ。



誰かに首を押さえられている!



その事実が俺をパニックに押しやろうとする。声を上げそうになるがこらえる。瞬きをする一秒の間に脳みそを漂っていた眠気を蹴っ飛ばして追い出した。急所を押さえられて何寝てやがる!お前は世界一の大馬鹿者だ!
「あ、起きちゃった」
腕と足がバネのように跳ね上がる直前に、上から柔らかい声が降ってくる。同居人の司書気取り天然野郎の声だ。パニックはまだ頭の中にいたがっていたけど、ひとまず見ないふりをする。落ち着いた声が出せるだろうか。瞳孔は揺れていないだろうか。手足は無様に震えていないか。
一呼吸置くことで条件三つをクリアした、つもりになる。首に添えられていた手を払って、暗闇の中でわらわらと動く白い影、もとい白髪頭に話しかける。
「……俺、は、どんくらい寝てた」
「十分も寝てないよ。僕が向こうから帰ってきたら静かになってた」
紫苑は部屋の奥を指差すジェスチャーをしてみせた。確かに手ぶらだ。例のカストリ雑誌は全部戻してきたらしい。ベッドの端に腰かける紫苑から少し間を取って、俺もどうにか起き上がる。起きぬけのパニックは心臓に移動したらしく、鼓動が多少早い。
「明かり消すなよ」
「僕も寝るつもりだった。今更暗い場所が嫌なんて言うのか?」
「俺はまだ起きるつもりだったんだ」
「じゃあ一緒に寝よう?」
首を傾げつつ、紫苑はそんなことを言う。好きにすればいいと思うが、その度に首を押さえられてはかなわない。何なんだよこいつ、さっきまでの純粋培養少年はどこに消えたんだ。暗い中で白髪を散らしつつ笑う姿は、耳まで赤くなった顔とまるで一致しない。赤い目が光るように俺を見ている。俺は目を閉じる。触られていた首筋が水泡のように疼いた。パニックは心臓を過ぎて足元まで移動した。もう戻ってくることはないだろう。
紫苑は何かを待つように側から動かない。ああ、そういえば返事を口に出してはいなかったな。
「好きにすればいい。ただ首は絞めるな」
「絞めてないよ。というか触ってない」
「触ってない?」
「あまりにも急に静かになったから、その、君が急性の何かになったんじゃないかと思って」
「ああ、脈を確かめようとしたのか」
「それもある」
紫苑は明言を避けるが、何を思い浮かべたのかは明白だ。俺は改めて首元を押さえる。何かがいる気配もない。もう疼かない。呼吸をもうひとつ。口元をねじ曲げて笑いのポーズ。
「あんた、自分の時のこと忘れたのか?」
「僕の時?」
「あああああって、散々騒いで失神した。あれだけうるさいなら誰にでも分かるさ」
「でも山勢さんの時は静かだったんだ、静かで、急速な反応だった」
「俺は生きてるよ。この部屋に白髪はあんただけで十分だ」
紫苑は口だけでそうか、と呟く。あからさまにほっとした顔だ。その後に上目でこちらを睨む。お、何だその顔。
「そもそも君が寝るからいけないんだ。赤ん坊だってあんな簡単には眠らない」
「これは失礼。グラビアなんて見たことないあなた様がうるさい同居人がいない間にハンドジョブに励むのではないかと思いましてね」
おっと、この言い回しは微妙に遠回りすぎたか。いちいち発言が芝居がかるのは俺のよくない癖だ。喉が乾いて仕方がない。
が、意外にも紫苑は一発で理解したらしかった。顔をかあああっと音がしそうなくらいに赤らめ、手をバタバタ振りまくる。ああ、と何となく安心してしまっている自分に吐き気がする。安心するな、気を抜くのが一番駄目だ。特に目の前の人間から、ほんの少しでも気を抜いちゃいけない。
それでも、気が緩む。これが演技だとしてもほっとしている自分がいた。それならそれでいい。俺も安心できるしこいつだってそうだろう。
「ななななな何言ってるのさ!やらないよそんなこと!」
「あんたはそうかもしれないけどね、西ブロックはそういうはけ口が異常に少ないからな。何でもいいって奴は大勢いるんだよ。自分だって男に誘われたりしただろ」
「あ、ああ、あれはそういう」
「まあそういうこと。だからこの部屋ではガラクタも同然だが、外に持ってけば意外に言い値で売れる、かもな」
「誰も買わないよ……」
「そうかもな。つーか寝るんだろ、ベラベラどうでもいいこと喋ってないで寝たら」
紫苑は初めて気付いたという様子で頷く。やれやれ、と首を振ると、紫苑はそのまま体を倒してベッドの半分を占領した。ごそごそ動いてうつぶせの体勢。笑いの形で固まっていた口がひくっと痙攣する。
「そっちで、寝たら」
「一緒に寝ようって言っただろ」
顎でソファーを示すと、紫苑はうつぶせのまま答える。もうぴくりとも動かないし。
「冗談かと思ってた」
「僕は冗談が好きじゃない」
「ああそうだろうさ」
やれやれ。俺はもう一度呟くと、仕方なしに改めて寝転がる。眠る、だって?こいつの言ってることは矛盾している。俺がさっさと寝たことに腹を立てるくらいだったら、何故明かりを消す必要がある。
仰向けに寝て改めて天井を見る。崩落しないのが不思議な、脆そうな天井。毎朝生き埋めになっていないことを、俺は誰に感謝すべきなんだろう。まずい、何だこの感情。紫苑が横にいるだけで、消えたはずのパニックが戻ってきたみたいだ。それのせいで動けない。顔から冷汗がにじむ。動けないことが俺に与える影響は尋常じゃない。どうしてこんなに、右手ひとつ動かすことができないんだ?
いや、違う。隣の馬鹿が俺の手を押さえているんだ。首だけじゃ飽きたらずに他の場所にも手を出したいらしい。うつぶせになっていたはずなのに、すぐ側ににじり寄ってきて右腕を丸々抱えている。肩に顎を乗せるようにする。毛布に入りたくて寄ってきた、のではきっとないだろう。俺は緊張で上ずりそうになる声を押さえながら、天井を見たまま口を開く。耳のすぐ下に口が当たっている恐怖を、こいつは知っているんだろうか。
「紫苑」
なに、と答える息が俺の首から下に抜ける。左手が助けを求めるように無様に震えるが、あいにくと近くには壁しかない。壁を破って助けてくれる誰かは存在しない。紫苑にも、俺にも。
「そういえば、あんた、俺のことが好きなんだっけな」
「うん」
悪びれもせずはっきり答える。嫌いの境目は曖昧だが、好きなもの以外は興味がないタイプの声だ。右腕が一瞬解放されるが、居心地の悪い感触がずりずりと体の下を這った。紫苑の手か、と理解した時には、首を回るようにして抱き締められている。上半身が硬直する。パニックがそこらじゅうに増殖して、悲鳴を上げながら紫苑を突き飛ばすこともできない。たかだかこれだけの行為で、俺は動くことができない。今夜だけで三回は死んでいる。
目の前、いや、もう胸の前まで接近している白髪頭は、そんなことはお構いなしだ。気付いているかどうかも怪しい。乳を求める仔犬みたいに、鼻先を俺の心臓の辺りに押し付けている。落ち着け、落ち着けって、何をビビってんだよ、こいつのこれは俺を殺すためのものじゃない、自分の欲望の顕れだよ、なのに、なのにどうして、俺は紫苑が側にいるだけで、こいつに殺されると思ってるんだよッ!!
「、しお、ん、待てって」
俺が掠れた声で静止すると、紫苑は顔を上げて目だけでこちらを見た。赤い目だ。何を考えているのかよく分からない。俺は呼吸を浅く数回繰り返して、体中のパニックと警戒心を追い出そうと試みる。そうでもしないことには、声が震えて喋ることもできなさそうだ。
「く、び、首は駄目だ」
「首?何が駄目なの?」
「他は、いいから、首には触らないでくれ。体が動かなくなる」
「? 君にとって首は性感帯なのか?」
「そういうことにしてくれていい。だから、触んな」
「分かった」
紫苑は簡潔に頷いた。理解した証拠なのか、体が離れる。起き上がって少し移動する。毛布の上から、俺をまたぐようにして腰を下ろし、手を顔の横に突いた。
「これならいいかい?」
「いいってことはない。あんたは何がしたいんだ」
「さっき言ったじゃないか。僕は君に惹かれている。だからその手のはけ口にするんだ」
「俺の都合は聞かないんだな」
「聞かない。本当に駄目なら僕は今頃死んでいると思うよ」
顔を俺のすぐ上に下ろし、真顔でそんなことを言う。それは正解かもしれないけど、半分しか合っていない。俺が動けないのは拒否しているからではなくて、こいつに殺されるかもしれないと思っているからだ。
ふう、と俺はため息をつく。パニックによる硬直は手足の先の方にだけ残っている。紫苑を蹴飛ばして他の場所に移動することは可能だが、何となくそんな気にもならない。はけ口がないのは俺も同じだ。そんなことすら忘れていた。
手を動かすと、意外に思い通りになる。震えもない。その事実に肩を落とし、右手で紫苑の顔に触る。赤い目は他の生き物のようだが、きちんと生きている人間の肌だ。
「はっ、そうだな、あんたはまだ多感な年齢だったな」
「多感の意味が分からないけど、そういう情動なら僕にもある」
「大切な友人に誘われた時にはなかったのか?」
「あったよ。沙布の時はそれが嫌だった。君はそうじゃない」
ぶつぶつと分かりづらく喋ってるが、何かしたいなら早くやればいい。経験がないならばないなりに、勢いってものがあるだろうに。紫苑はここまで来てやる気が萎えたのか、俺の上にまたがったまま動こうとしない。それとも、首に触るなと言ったのがよっぽど嫌だったんだろうか。
手をもう少し上に上げて頭を掴む。引きずるように下げた。がくんと音が出そうだ。歯が当たりそうだが、俺の行いがいいせいかそうはならず、口と口が合わさるだけだ。舌で歯をなぞると勝手に口が開く。咥内に舌を入れても紫苑は少しも動かない。唾液が溢れて俺の顎辺りに流れる。そこでようやく、バランスを崩したらしく突いていた手が滑る。危なく頭をぶつけるところだった。
紫苑は情けなく荒い呼吸を繰り返している。俺は口元を拭って、乗っかっている体を押しのけた。ベッドの上に膝立ちになる。格好だけ見れば、さっきのとは逆の位置だ。ゲホゲホ言ってる紫苑の肩を掴んで仰向けにさせる。紫苑は目の端に涙さえ浮かべていた。苦しいせいなのか嬉しいせいなのか分からない。
「ぶっ、ぶほっ、こ、腰が立たない」
「お前なあ……」
「仕方ないだろ、色々と初めてなんだ」
「それはそれは。俺でよければ色々と教えて差し上げますが」
「頼んだ」
紫苑はあくまで生真面目な顔だ。俺はどう反応したらいいのか分からず、とりあえず笑ってみせた。というより実際に面白かった。何かもう、全然そんな雰囲気じゃないんだが、紫苑がお望みなら叶えてやろうという気分になる。しかしどうしたものか。紫苑はいつものカーディガンを着たままだった。とりあえずボタンを外す。男同士の作法とか正直よく分からないが、最終的にどっちが「そう」なるのかは、現時点では考えないでおこう。
ついでにシャツのボタンも外す。例のヘビのようなアザは、暗闇に紛れてほとんど区別ができない。少し色が肌と違うように見えるところをなぞると、紫苑はあははと笑った。
「ま、待った。今腰が立たないんだ、くすぐったいのに笑うに笑えない、拷問だ」
「拷問なわけあるか。あんたな、少しは警戒心を持てよ。俺がナイフでも持ってたら体中刻まれてたぞ」
「君今持ってるの?」
「持ってて欲しかったのか?」
そんなことを言うと真剣に悩み始める。半裸で首を傾げているのはシュールな映像すぎて直視に耐えない。俺は何回目かのため息をついて、体を曲げた。首、元に、口を置く。軽く歯を立てた。紫苑は一瞬びくりと体を揺らしたが、抵抗もしないし過度に緊張した様子もない。人間の顎でも、壊れることを恐れなければ脊髄くらい噛み砕ける。どうしてそれを予想しない?
執拗に首だけをねぶっているようだ。さっきの紫苑と逆だ。俺であればとても耐えられない。紫苑は投げ出していた手を俺の肩に置いている。力は入っていない。声が時々震えた。
「き、みは」
手を置かれた肩が力を込めて握られる。顔を上げると、どことなく興奮した、ただし芯が冷えた声で問われる。
「どう、して、首が嫌なんだ」
「……人間の急所だ。首だけじゃない、鳩尾だってどこだって嫌だよ」
「そうじゃないだろう」
上から浴びせるような冷徹な声だ。俺は首筋から顔を離して、体を起こす。紫苑は力なく横たわったまま、目だけが別の生き物のようにこちらを見ている。
「僕が触るから嫌なんだろう?」
「……」
「僕が君の首を触ると、君は自分が殺されると思う。だから嫌なんだ」
「……」
ああ、そうだ、よく分かったな、その通りだよ大正解だ。否定する隙も理由もない。あんたに触られたくない理由は全部同じ内容に集約する。食うものと食われるものの関係だ。それ以外はない。
とは、俺は一切口に出さず、とりあえず無言で通した。紫苑の薄い腹を触って、手を下の方に移動させる。ベルトのバックルを外して、ボタンも開ける。とそこまでやってやっと、偉そうに喋っていた人間が焦り始めた。
「えっ?えっうぇっ、まっ、待った待った何やってんのさ」
「何って、見りゃ分かるだろ、脱がしてんだよ」
「ぅい!?っいっいいよ自分でやるよそれくらいは!」
「あっそ。じゃあ全部自分でやってくれ」
「ぜん、全部?」
目を丸くする馬鹿の手を取って股間に持っていく。ずるずると下着まで下ろして自分で握らせた。やってやろうかと思ってたけど、ひとりで大丈夫だと言うもんだから、ねえ?
「じじじ自分でってこういう意味かよ!」
「見ててやるから最後までやるように。あと今更隠すな気持ち悪い」
男の内またほど見ていて気分が悪くなるものはない。膝を掴んで無理矢理開かせる。それでも手で必死に隠しているのだからこいつはもう仕方がない。
「ほら、さっきのクソみたいな雑誌でも思い出して、手早く始めてくれよ」
「手早くって無理!無理言うな!」
紫苑は耳どころか首くらいまで赤くなっていた。暗い中でも分かるんだから相当だろうさ。さてどうしたもんかね。いちいち中断されると時間がかかってしょうがない。俺はもう一度体を倒して、紫苑の上に乗りかかるようにする。俺の腰より少し上の位置で、紫苑の手がひくひく動いた。
「そうか、紫苑は俺が好きなんだったな」
う、と頷いてんのか違うのか分からない反射みたいな声。耳の側で名前を呼ばれるのは、それなりに心地いい行為のはずだ。ついでにこいつは男じゃなくて「俺」が好きだというから、俺なりのお手伝い、ということで。
「俺で抜いたこととか、あんの?」
「、う、ない、よ」
「今はどう?興奮する?」
「っん、んは、うん、する」
だろうね。腹の辺りでごそごそ手が動いているから。俺という荷物があるせいで少しもどかしいだろうが、それはそれでいい要素だろう。一緒に触る必要もなさそうだ。
「なあ、普段は何想像してる?教えてくんない?」
「ふっ、ふだん、普段って」
「俺がいない時に、例えば俺の服とかを使ったり、とかさ」
「つか、つかうって、んはっ、うう……」
紫苑は困ったような顔になるが、手の動きは止めてない。いい調子だ、と俺は保護者のようなことを考えて、多少腰を浮かせる。荷物がなくなったせいか、勃起している様子がよく分かる。凄いな、本当に俺のことが好きなのか。少し不思議な気分になる。
そうしてここまで来ると、紫苑は俺という見物人がいようがいまいが関係ないらしい。目をつぶって、はあはあと呼吸を荒くして、まあそれでもぎこちなく手を動かし続けている。手が微妙に濡れたように光って見えた。それを確認して、俺は紫苑の両腕を掴む。かわいそうな紫苑はいきなり中断されて、腹から足にかけてブルブル震えていた。
「なっ……ねず、み、離せっ」
「よくできました。ちょっと我慢しろ」
俺はにや、と一応は余裕ありげに笑ってみせる。腕から手を離して、尻を掴んだ。肛門は当たり前だが指一本入るかも怪しい。そして残念だがこんな場末の汚い家に潤滑剤なんて望むべくもない。俺が自分の指を二本ほどくわえていると、紫苑はギョッとしたように身を引いた。ほぼ全裸に近いので滑稽な動きだ。警戒した視線。
「……まさか、それを」
「そうだよ、このまんまじゃとても緩まねえからな」
「いやいやいやいや無理無理無理無理」
「慣らすだけだから、先っぽだけ先っぽだけ」
「無理無理無理そこはものを出すところであっと入れる場所じゃ」
おいおい、こいつは一応の設定に「何にでも興味を持つ」ってがなかったか。自分への痛みや苦しみくらい、新しい経験をするためには我慢してほしい。指先をべろべろと濡らし、足を閉じようとする馬鹿の尻を持ち上げて尻穴を探る。先っぽだけってのはもちろん言葉の綾で、入れるところまで入れて慣らさないといけない。
「あぅぐっ、うえっ」
ちょっと突っ込んだだけでこれだ。腹に何かが詰められている違和感でもあるんだろうか。片手だけでは足りずに、もう片方も使ってどうにか穴を広げようとする。ったく、何やってんだか。正直なところめんどい。もうやめたい。紫苑は相変わらず苦しそうだ。
いつの間にか抱き抱えるような体勢になっている。紫苑の体重は随分と軽く、中身が何もないんじゃないかと思うくらいだ。でもそうだったらもっと楽だろうし、俺の鎖骨辺りでぜいぜいと吐きそうな呼吸だって繰り返さないだろう。あと顎のすぐ下でえづかれるとこちらまでもらいゲロしそうだから心底やめて欲しい。
「んっ、んは、も、もういーよ、げんかい……」
「吐くなよ、誰が掃除すると思ってんだ」
「うぷっ、んぐっ、きみ」
「ふざけんなアホ」
そうだ、俺も何とかしないといけない。紫苑の尻から手を離して、自分の前を開ける。他人のオナニーなんぞ見たからか、何となく勃っているかな、という感じ。そりゃそうだ。紫苑は俺が好きだから俺でいけるだろうけど、俺はそこまで持っていけない。そもそもビビってるくらいなんだ。今日はよくぞここまで到達したものだ。ご褒美、になるかは分からないが、とりあえず最後までやったって罰は当たらないだろう?
「紫苑」
「無理だ」
「お前から言い出したんだろ」
「限度がある」
「最初は誰でもそうだ。慣れればどうってことない」
「慣れたくな」
最後まで言い切る前に尻にあてがったペニスを無理矢理入れ、ようとする。確かに全然入らない。女の時とは違うから、紫苑は腰を少し浮かせなければいけないわけだが、もうその時点で苦しそうだ。こっちも苦しい。「先っぽだけ」がリアルに実現しそう。
「もっ、無理ッ、無理だって」
「無理じゃない何とかしろ」
「こ、これはっ、僕がなんっ、とかできる、ことじゃないっ」
「喋ってないで、何とかっ、しろっ!」
ぜえはあいう呼吸の中で、吐く時を見計らって何とか挿れていく。性欲とは別の意味で必死だ。目の前で自分じゃない男の性器が揺れているけど、それを見て萎えてる場合じゃない。つーか萎えたら何もかも終わる気がする。
「んんんっ!ぐはっ、うえ、ふぁ、あ、あれ」
「あれ、どした」
「んっ、うぇえ、あれっ、どうしよ、何か、んはっ」
紫苑は何かをこらえるようにベラベラ喋り始める。肩にかかる呼吸が、さっきまでとは違うように荒い。揺れる頬に顔を合わせてみると、微妙に汗ばんで熱かった。
「んぁっ、ひあっ、なんっ、か、へんだ」
「変じゃない、普通だ、多分」
「へん、だよっ、いやだっ、うぁっ、うぅ、」
変じゃない。多分腹の違和感が何故か快感に変わったからどうしたものか迷ってるんだろう。それでいい。それでいいようやく終わりだ。俺は正直あまり気持ちよくなくて、きつい中に挿入しているという感触しかないけど、今回は紫苑が言い出したことだから、こいつが終わればそれでいい。
紫苑は腰を折って尻を浮かせた格好なのに、まだ頑張って俺にしがみついている。腹の前に時々先端が当たってビクビクと動いた。あー、そういえばこれはどうしたらいいのかな、とか俺が思っていると、
「んあっ、ごめっ、もうっ、」
とか何とか言って、紫苑が俺の首に額を当てた。急に首に触られたことにギョッとする間もなく、触れていた腰が震えて、腹の服越しに妙な生暖かさがある。ついでに紫苑もぶるぶる震えた。
「〜〜〜〜〜〜っ、ぶはっ、ごめ、んなさい……」
って出したあとで謝られても仕方ないんだが。









「僕だけ脱いで君が服を着たままなのが悪い!」
汚れた服を脱いで、ついでに尻も解放すると、紫苑はベッドに倒れ込みながらそう言った。倒れる前に前を拭いてほしいんだけど。半分以上は自分の腹にかかっているはずだけど。
「時間がなかったから仕方ない」
「次があったら最初から脱いでくれ。不公平で不平等だ」
顔を枕に埋めたまま、相変わらずの真面目ぶった声で言われる。そう言われてもなあ。
「俺にはあんたみたいなオプションがないんでね、脱いでもつまらないだけだ」
「アザのことを言ってるなら悪い冗談だぞ」
「本気だよ。次は明かりを点けたままにしてくれ。暗いとよく見えない」
「……君の言ってる意味がよく分からない」
紫苑はいぶかしげな表情になった。本当に理解できないという顔をしないように。
さて、と俺は服を抱えて、服を抱えて立ち上がる。風呂場にでもいかないと。
「ネズミ?どこ行くんだ。服を着た方がいい」
「あんたに言われたくないな。風呂場だよ、洗濯だ」
ついでに半勃ちのまま終わってしまって苦しいのでそれの処理もあるけど、とは、もちろん言わない。言ってどうする。
「あっ、待った」
がしっ、と腕を捕まれた。思わず服を落としそうになる。振り向く間もなく強く引っ張られて、俺は強引にベッドに座らされた。横にはキラキラと無駄な好奇心で輝く紫苑の、気持ち悪いくらい全開の笑顔。
「ネズミ、君はまだ射精してない」
「それがどうした」
「僕だけっていうのは不公平で不平等だ。次があるなら服を脱がせる。そして、今が次だ」
「……ひとりでやるから結構」
「それはよくない!」
がうっ!と犬みたいに紫苑が吠える。随分元気だね。





2011:10:01