三月三十一日、午前四時三十五分。今日の日の出はあと一時間後の予定だ。俺はコートの襟を立てて染み込むような寒さに耐えていた。確かにもう春で、桜も咲いてるけど、日も昇っていない朝なんてこんなものだ。真冬って言っても通るだろう。もっと防寒具を着てくればよかった、と俺はがくがく歯を鳴らしながら思う。他の連中は腹立たしいことにまだ来ない。おいおい、全員寝坊かよ。あと五分待って誰も来ないなら俺は即、何の躊躇いもなく、一瞬の迷いも残さずダッシュで帰るぞ。携帯を取り出す元気すらなくて、時間の確認ができないのが難点だが。
「おおおおおはよううううっすうううう」
後ろから聞こえる妙に間延びさせた声。朝っぱらからこんな迷惑なことをする馬鹿は決まっている。俺は遅れたことついての文句を何と言ってやろうかと振り向き、そこにいるアホの姿に凍り付いた。
「はっ、半袖……!?」
「ういーっす!こどもは風の子元気な子だからな!」
自転車に乗るそいつは間違いなく稲垣だが、その服装は季節を二ヶ月ばかり先取りしすぎている。半袖Tシャツ一枚と変にしなびたジャージ下。つまりは、大変、寒々しい。見てるだけでこっちが寒くなる。
「馬鹿じゃねえの馬鹿じゃねえの馬鹿じゃねえのアホ」
「だって今から自転車ぶっ飛ばすんだろ?着いて戻る頃にはめっちゃ暖かいって」
「ああ、全員遅刻しやがったせいでぶっ飛ばすはめになってるよ」
「幹なら俺の前走ってたけど」
なにっ、と辺りを見回す。斉藤は存在感が薄いとかそういうわけじゃないけど、稲垣みたいに自分から騒いだりはしないので、横にうるさい奴がいると見失ってしまうのだ。
果たして、斉藤は普通にいた。俺より更に重装備だ。マフラーコート手袋。真冬の登校でもそんなに着てなかった癖に。斉藤は俺と目が合うと、よっと軽く手を上げた。
「安川はちょっと遅れるって」
「何だよ幹その格好!大袈裟すぎんだよ日本一周自転車の旅少年か!」
「あと三分くらいで着くって」
ゲラゲラ笑う稲垣を完全に無視して、斉藤はマフラー越しのくぐもった声で俺に話しかける。稲垣はもうショックすら受けなくなったみたいでいまだに斉藤を指差して笑っていた。寒いから無理に動いているのかもしれない。そう思うと可哀相な奴だ。
「もー四十五分だぜー、安川の馬鹿は置いてこー」
「や、でも斉藤に連絡あったんでしょ?」
「ああ、うん。俺が一番早く着くと思ってたんかね」
「いやいや、斉藤くんが部長だからね。部長に連絡したまでだよ」
エクスクラメーションマーク三つ分くらいを費やして、俺と稲垣は(斉藤は微妙なテンポ遅れで)勢いよく横を向いた。そこには声の主の安川と、
「藤崎先輩!?」
「はっ、半袖……」
「自転車……」
全員の視線をひとり占めにしている藤崎先輩だった。彼女の状態はこの三人のコメントで把握して欲しい。もう卒業した三年の先輩が、ほとんどいなかった部活からの呼び出しに応えて集合したあげく、服装は稲垣と同じような軽装で、やけに似合わないママチャリに乗ってやってきたのだ。隣の安川だって上着といえるのはジャケットくらいのものだが、それにしたって軽装すぎるだろう。
藤崎先輩はこの驚愕の沈黙すら耐えがたい時間らしく、ガタガタ歯を鳴らしながら喋る。
「何をしている。移動するなら早くしてくれ、凍え死ぬ。ちなみに私は場所を知らないんだ」
「ちなみに俺も知りません〜」
「え、俺もなんだけど。安川が知ってんのかと思ってた」
二人の、いや三人の目線が今度は俺に集中する。俺は少しうろたえた。何故俺に期待をかける!
「俺かよ!」
「いや、だってさあ」
「森下くんなら確実だしねえ」
「移動すらなら早くしてくれ。森下、何でもいいから場所を言え」
藤崎先輩は既に自転車にまたがっていた。これ以上返事を遅らせたらそのまま帰りそうだ。俺はお世辞にも決断力のいい方ではないので、あーとかうーとか唸って、仕方なく全員を先導することにした。先導も何も、駅前の道をまっすぐ行って、消えかかっている外灯の脇道を通って、たんぼ道を抜けて土手に出るだけだ。
俺含む電気部五人、正確には先輩を除いて四人は、年度末の朝日を見に、まだ薄暗い寒い道をひた走る。









言い出したのは誰だっただろう。俺でも斉藤でも、もちろん先輩でもなく、珍しいことに稲垣でもなかったような気がするから、もしかしたら安川だろうか。
「年度末の朝日は縁起がいいんだってね」
もう完璧に完全にいい加減な嘘だ。安川は何を言っても胡散くさく聞こえるという特技を持っているから、この時もそう聞こえていたんだろう。
言い出した本人は、元旦の朝に文芸部の連中と日の出を拝んできていたらしい。何だそりゃ、と俺はまともに反応したけど、斉藤は何も言わず、稲垣はイベントには即乗るタイプだから案の定多数決が成立してしまって、こうしてのこのこ起きてきている。その癖時間を守ろうという気が更々ないようで、俺はよくこんな連中と二年間も付き合ってきたものだ。
「森下ぁ、寒いぞ、もっと本気になってこぐんだ。私を凍死させる気か」
すっかりいつもの無表情に戻った藤崎先輩が無茶なことを言う。俺の体力が貧弱なのは全員知っているだろうに。
「先輩が、もっと、厚着、してくれば、よかったんですよ」
俺はヒィヒィ言いながらどうにか答えた。全員遅刻してきたせいで、目的の朝日に遅れそうなのだ。先輩は相変わらず真っ黒な腰まである髪をなびかせ、ついでにシャツの袖をはためかせながら喋る。季節が季節なら涼しげだが、今はまだ春先の明け方だ。寒い。
「仕方がないだろう。文句は安川に言ってくれ。着替える暇もなかった」
「えっそれってえっ」
「耳聡いな稲垣。私が今日のことを聞かされたのは、今、日、の朝四時だ。家を出てくるだけで精一杯だったからな」
遠くの方からさーせーんという声。安川の行動力と自己中心には驚きを通り越して感動する。朝の四時に卒業した先輩に連絡を取って家から出させたのかよ。
「ま、俺としては、先輩がこんな行事に参加してることの方が驚きですよ」
「君達の遊びに付き合ったわけじゃないよ。私が家から抜け出すと妹がぎゃあぎゃあわめくんだ。それが面白くてね」
先輩は俺と三秒間並走して、一瞬だけにやりと笑った。ついでに追い越していく。道なりにまっすぐ行くだけだし、迷わないと踏んだんだろう。俺は以前訪れた先輩の豪邸を思い出す。確かに、娘が明け方に出ていくと騒ぎそうな家だが、それで騒がない家なんてあまりないだろうな。
「っていうか安川!どうやって先輩連れ出したんだよ!お前すげえな!」
「別にだよ。コツを掴めば稲垣くんにもできるよ」
「何のコツ?」
「メリーさん方式」
頭上にハテナマークを出す稲垣に斉藤が補足する。よくある怪談のアレだ。謎の人物メリーさんが段々近付いてくるストーリー。稲垣は盛大なくしゃみをしながら頷く。
「へー。何も言われなかったん?あの家ちょーでかいじゃん。夜中に近付きでもしたら警報鳴り響いてドーベルマンが襲ってきそうじゃん」
「さあ?俺はほとんど待ってはいないからなあ。案外ノリがいい人だよ、藤崎元部長は」
「ノリってより妹さんへの嫌がらせだろ……」
俺はさっきの含み笑いを思い返しつつ口を挟む。安川も無責任にそーかもね、などと帰した。斉藤の姿が見えない。あの野郎帰りやがった、と思っていたら、後ろの方にいた。やたらと厚着をしているせいでこぎにくくなっているみたいだ。稲垣を足して二で割った服装にすればいいのに。
たんぼの道は細い上にそれなりに不整備で実に進みにくい。加えて無駄に分岐していて、どこで曲がれば最短なのかが掴みにくかった。ただし今回は道路沿いに進めばいいだけなので、土手の入り口まで迷う心配はない。道がはっきりしない内に行かなくてはならない。迷わないで進めるようになったらもうタイムオーバーだ。
話すことがないのか、電気部の面子は口を閉じる。先頭が稲垣になって、寒さ対策でかなり速度を出しているせいもある。マラソン大会の時みたいに、全員の顔が赤い。そういえば誰も運動部に入っていない。全力で自転車をこがなければいけない時なんてなかなか見当たらない。
気付いたら俺は一番後ろになっていた。案内役はさっさと外されたものだと思っていたら、たんぼの出口、道路と土手に繋がるちょっとした坂道の前で、全員が一時停止していた。息が洗い。
「森下、ここでいいんだろう」
「、ええ、はい、そこで」
俺はあえぎながら答えた。運動して暖かくなるというよりは、冷たい空気を吸いすぎて喉がおかしくなっている。声がまともに出ないし呼吸するのも辛い。藤崎先輩は俺の息が戻るのを待つ気は更々ないらしく、さっさと自転車にまたがった。後ろの面子も無言で付いていく。あれだ、何かの儀式みたいだ。いや、実際そうなんだろうけど。一番最後の奴が生贄に捧げられるんじゃないだろうな。
ひいひい言いながら土手まで上がる。自転車を持ち上げる道まで行くのは面倒だったので、道路との乗り入れ口に置いてきてしまった。足が震える。確かに寒くはないような気がするけど、これは多分急な運動で頭が付いていってないせいだ。あと五分後には寒さと疲労で死にそうになっているだろう。まだ辺りは暗くて寒い。日が出れば、もう少し暖かくなるような気がする。あと五分だ。
「先輩、着ますか」
「お?おう、どうした安川、君が他人に気遣いなんて珍しいな」
「いえ、先輩があまりにも可哀相な格好なので」
「言いにくいことを平気で言うな。まあいいか、ありがたい、借りておこう」
安川が珍しいことに先輩を気遣う。はた目の印象通り、ジャケットの下は長袖のシャツ一枚に見える。俺の嫌そうな視線に気付いたのか、安川はピースサインを決めた。
「森下くん、気にしなくても、俺はヒート何たらを二枚ほど着てるよ」
「誰も聞いてないよ……」
「正確に言うと二枚というか二種類だ」
「心底どうでもいいよ……」
安川を見て心が動かされたのか、稲垣が突然斉藤にタックルした。どうやら上着を剥がそうとしているらしかった。
「幹!俺にも!俺にも気遣いを!やっぱ超寒い失敗した!」
「うわやめろなにをするはなせ」
「言い方は棒読みだけどお前絶対上着離す気ぃねえよな!何その握力!無駄なんですけど!」
俺はようやく息が整ってきたところなのに、何て元気なんだろう。いつも負ける稲垣は今回だけは哀れぶまれたらしく、斉藤から上着を奪い取ることに成功する。
「つーか幹てめえ何枚着てんだよ!コートの下にコート着てんじゃねえ!」
「じゃあ稲垣は何も着るんじゃねえ」
「ひでえ!」
うん?と俺は斉藤の足元に注目してみる。いやに見慣れた柄のズボンだ。というか、いつもはいてる何かだ。斉藤の奴、面倒くさがって制服を着て出てきたらしい。
とそこまでして、ようやく周囲が、少なくとも服の柄を判別できるくらいに明るくなっていたことに気付いた。振り返って、土手の向こう、橋がかかっている川を仰ぐ。
やけにオレンジが強い色の太陽が、ずるずると上ってきていた。ぼけっと口を開けて眺める。夜明けだ。急に暖かくはならないけど、目を細めなくても周りの表情が見えるくらいには明るい。皆眩しそうにしていたが、それなりに満足そうだ。
「明けたー」
「明けたねえ」
「あれ、誰もカメラ持ってねえの?」
「あるわけないだろう。私なんぞ携帯すら持ってない」
そうだそうだ、と全員がばらばら手を上げる。記念撮影的なものに興味がない奴らだとは思っていたが、やる気がなさすぎる。何のための早起きなんだと心底疑問だ。仕方がないので上がり切るまで太陽を拝んで、これ以上冷えない内にさっさと帰ることにした。斉藤が真っ先に土手を降り、先輩が無言で続く。稲垣と安川は最後まで動かなかった。早起きに耐性がなくて、夜明けの瞬間を見たことが少ないんだろう。
俺は大欠伸をしつつ、どうにか自転車にまたがる。先輩は安川の上着を着たままだったので、帰りは急かされずに済みそうだ。こいでいる間に寝てしまって、自転車ごとぶっ倒れたらどうしよう、なんて無駄なことを考えた。眠すぎると人間ろくなことがない。









駅までのろのろ戻っていった俺達を待っていたのは、鬱陶しいことに藤崎先輩の妹だった。何で待ってるんだあいつ。
藤崎妹は集団で現れた自転車軍団にも驚くことなく、肩をいからせてずんずん近寄ってきた。俺とか稲垣とか斉藤はトラブルを予感して少し後ずさりする。ここはアレを知ってる面子に任せた方がいい。すなわち、安川と、先輩だ。
先輩は実に呑気ないつも通りの声で妹を出迎えた。
「よう咲。こんな朝早くに何をやっているんだ」
「おっ、姉ちゃんこそっ、何やってんのよ!何朝っぱらから抜け出してんの!?意味分かんないことしないでよっ!」
「もう戻ったじゃないか」
「そういう問題じゃないって言ってんの!ひと言残してから出てよ!っていうかこんな意味分かんない時間に出ていかないのが普通でしょ何でお姉ちゃんには常識ってもんがないのそれだからいつもいつも」
「じゃあ、私はここで失礼する。安川、上着は今日妹に持たせる。学校には行くんだろう?」
ぎゃあぎゃあとわめく自分の妹を完全に無視して、先輩は安川に話しかけた。安川が頷くのを見ると、自転車から降りて、徒歩で来たらしい妹と並んで歩き出した。藤崎先輩はいい人なのだ。ただし行動が少し変わっている。
「……相変わらず、藤崎妹のテンションの変わり方半端ねーな」
「そうだね。藤崎さんはねえ、部室にいる時は静かなんだけどね、ちょっとスイッチ入っちゃうんだよね」
安川と先輩の妹さんは同じ部活だ。そこでの妹さんは口数も少ない大人しい人、らしい。文芸部に行ったことがないからはっきりしないけど。ちなみに妹妹言っているが、俺と同学年である。四月から高校三年生だ。
ぐえっくしぇえええ、と稲垣が酷いくしゃみをして、斉藤が何につられたのかでかい欠伸をした。いくら何でも解散時だ。
「それじゃ」
「また」
「お休みー」
ぼそぼそ挨拶をして、今度こそ別れる。今日は三月三十一日。朝日を見て、離任式ってやつに参加しなくてはいけない。卒業生の藤崎先輩と会うのは、実は三分前で最後だったのかもしれない。何の感慨も湧かないから、とりあえず寝直して頭をすっきりさせよう。じゃあ、お休み。





2011:03:27