「うおーい、風呂出たぜー」
頭をわしわし拭きながらそう告げると、ベッドの上で携帯をいじっていたイヴァンがいかにも嫌そうな顔で俺を見た。布団と扇風機を占領してなお不満があるらしい。
「なあにそのお顔は、ご飯も作ってあげたでしょーに」
「……何でお前が先に入るんだよ」
「はぁあああ?年頃の娘とそのパパじゃあるまいし」
「変なにおいが付いてそうで気持ち悪いんだっての!」
酷い言い分である。というかそもそもこの部屋は俺の借りている部屋で、既に一年半くらいはここに住んでいるわけで、においがどうのと言うならイヴァンの馬鹿はこの部屋に入ることもできないはずだ。人のベッドの上に座るのは平気で使用後の風呂場を使うのは嫌なのか。妙な潔癖症だな。
まあ、俺は大人なのでギャーギャーと見苦しくわめくイヴァンは見ないふりだ。何せこいつのアパートは風呂がないどころか、トイレ洗濯機台所が共有という今時簡単には見付からない骨董品だし。銭湯に行く金すらない後輩にシャワー代を貸してやるくらいお安いご用だ。
ぶつくさ言いつつも、夏の夜の息苦しさに耐えられなくなったらしく、イヴァンは大人しく風呂に向かった。タオルは持参だ。基準が分からん。俺は扇風機を止めると、窓を全開にして勢いよくうちわをあおいだ。網戸はこの前取り外して洗って、ついでにきちんと取り付けたので、最後まで閉まるし風通しはいいしでなかなか素晴らしい。
「はー、夏だねえ」
しみじみ呟いても涼しくはならないわけだが、俺はパンツ一丁のまま三回ほど言ってみた。扇風機を止めたのはしばらく半裸でも冷えないようにするためだけど、そろそろ服を着て明日の準備でもするか。ついでにイヴァンちゃんのアホに麦茶でもふるまってやろう。
ああ、俺ってなんてかいがいしい。









イヴァンは俺のひとつ下の学年だが、いわゆる幼なじみというやつで、この年になっても昔と変わらない口調で話しかけてくる。というか成長した分昔より口が悪くなるわ可愛い気がなくなるわ身長は抜かされるわでろくなことがない。ただし俺は優しい偉い素晴らしい先輩なので、こんな礼儀知らずが風呂を借りに来たり飯をたかったりしても笑ってオーケーしてやる。ついでにベッドを占領して寝くさりやがったアホを優しく蹴り起こしてやるサービス付きだ。俺は壁際に立って、フリーキックを決めるプレイヤーのごとき足さばきを披露した。イヴァンはボールみたいに空中高く舞う、はずもないが、床にごろごろと転がり落ちて「ふげぅがっ」とヒキガエルみたいな声を出した。
「げふっ、んなっ、何しやがるこのクソ野郎!!」
「人間目覚まし時計デスヨ?効果バッチリ、お目めパッチリ」
「ざっけんなこのクソ!ブタ!!」
朝から随分なテンションだ。実は高血圧なんじゃねえのこいつ。俺は真顔で血糖値を下げる食べ物とかを教えてやろうかと思ったが、アホに構っていると俺が遅刻するので真顔のまま無視することにした。俺が真顔のままシカトしたので、妙なところで空気を読むイヴァンちゃんは急にしおしおと叱られた猫みたいになる。口汚なさは直らないけど覇気がなくなる、みたいな。そうそう、それで大人しく着替えて出かける準備をしてくれなくちゃね。同棲中のカップルじゃあないんだから、鍵を共有したり合鍵渡したりなんて行為、お兄さんしたくありませんよ。
というわけで、イヴァンに昨夜の荷物と今日の荷物を持たせて、俺は安心して自分ちの鍵をかけた。朝帰りで一緒に出るのも、できれば登下校する相手も、俺としては可愛らしい女の子の方がよかった。っていうかわざわざ人の部屋に泊まるなよ。イヴァンのアパートはここから歩いて五分くらいしかかからないのに。
イヴァンは現代っ子の癖みたいに携帯をいじりながら歩いている(ちなみに俺が思うに癖はあといくつか存在して、妙な潔癖症や、物事を重要だと判断する基準が違う、ってのがあると思う)。その内車に轢かれて死ぬよ?と三回か五回は言ったけど改善されないので俺はもう知らない。俺こいつのママじゃないし。一緒に歩く相手に楽しい話題くらい提供してもよくないか?
まあ、学年が違うから仕方がない。校舎までまっすぐ二百メートルって距離になると、俺とイヴァンそれぞれの友人がぽつぽつと現れ、俺らはまるで磁石みたいにふらふらそっちに引き寄せられてしまうから。気分としては毎日同じ車両に乗る同じ駅の人、みたいな?そんな考えも離れて二十秒くらいで頭の奥に沈む。
幼なじみって何だよ。辞典もしくはゲームにしか存在しないと思っていた。幼い時の馴染みが、十年後にもよい友達であるわけがない。十年後にもよい友達でいられる友達は、ある程度分別が分かって、自分が世間の中でどうあるべきか理解した時にようやく出来始める。早くて今頃から、遅い奴にはきっと一生出来ないはずだ。そんでそういう奴は頻繁に友人が入れ替わって空しい思いをする。ま、どうでもいいけど。つまりは幼なじみだからってべったりくっ付いて離れない、みたいな関係はありえないってことだ。イヴァンのアホが嫌いなわけじゃないが、もしかしたら明日から絶交するかもしれない。そしてそれを恐れてはいけないわけだ。幼い馴染みなんてそんなもんだ。
なんて馬鹿げたことを考えるのは暑くて暑くて死にそうだからだ。どうしようもない内容すぎて俺はもう死んでいるのかもしれないと思えてくる。朝にちょっと頑張ってセットした髪が哀れにもしぼんでいる。濡れた犬みたいだ。クラス全体が濡れて水がたまって今にも沈没しそうだ。海かー、海いいなー、海行きたいなー行っちゃおうかなー、今日。
「あ、そうだ、今の内に言っとくな、朝言い忘れたんだが」
担任でもある数学教師オルトラーニせんせいは、古ぼけた腕時計を確認して急に話題を変えた。logの計算式を真剣に見つめていた奴と諦めて突っ伏してた奴とそもそも聞いていなかった俺みたいな奴らが、何だ何だと教師の方を向く。眼鏡の数学教師は全員の視線が集まったことに少し驚きつつ、
「今日の放課後だけど、委員会の召集があるから。何たら委員とか何とか委員とか、その辺になってる奴は四月にも集まった場所に三時までにだな……」
と健気にも最後まで言おうとして、「今日の放課後」から生徒のブーイングにあって声がかき消えてしまった。俺もブーイング係のひとりだ。おいおいせんせい、今時放課後に委員会なんてあるのかよ?もう嫌がらせにしか思えない。普通は昼休みに集まってどうでもいい当番とやる気のない目標を決めて終わりだろうに。俺は偉いから四月の委員会を覚えているんだが、出席率が異常に悪くて即解散になっていた。即解散が印象的すぎて何の委員会だったか覚えてないくらいだ。
ブーブーと終業のチャイムに負けないように、健気な数学教師(髪は長いけど将来てっぺんだけハゲそう)が全員の属する委員会と集合場所を怒鳴っていた。俺?風紀委員?西館二階数学準備室脇の教室集合?どこそこ?









「おいこらそこのジャンカルロ。逃げたら前期の数学、1にするからな。午後もサボんないでちゃんといろ」
授業が終わって即教室を出ようとした俺の後ろから声がかかる。冴えない地味系数学教師かつ担任のオルトラーニせんせい。長髪が暑ッ苦しいのか後ろでひとつに束ねている。
えええそれ職権濫用じゃねえの〜と俺がブーたれると、眼鏡教師は嫌そうに(暑そうに?)目を細めた。
「四月の委員会、出席しなかった奴は皆ひとつ下の成績にしてある」
「はああマジでえ?じゃあ俺出席したよ!四月はいたって!」
「知ってるよ、俺が風紀委員会顧問だし」
ああ、そういえばいたね。前に座って退屈そうに足組んでた教師。
「じゃあ評価上げてよ。5とか」
「無理だ。というかジャン、お前今回欠席だと数学の成績が空白になるぞ?成績付かないと自動的に留年決定だぞ?」
x−1=0。て。俺の今の成績1かよ。
そんな俺の間抜け顔を見て、数学教師は何がおかしいのか口の端を少し持ち上げた。あとには何も言わずにさっさと教室を出ていく。
大丈夫だジャン補習があるし追試もあるしドゲザもある一緒に三年なろーぜー、耳ざとい上に勘違いした内容の慰めをくださるクラスメイト達にうぃーと歯茎を出して答える。そこまで深刻じゃねーし馬鹿でもねえよ。そ……こまで……、しん、こく、じゃ……ねー……よ……?ないよね?
実はあの担任教師にも、俺は少し馴染みがある。去年も担任だったとかそんな近いところじゃなく、あいつが運動会で転んで涙目になっていることまで知っている仲だ。つっても俺の実体験じゃなく彼、ベルナルド・オルトラーニせんせいの母親から伝わってきた情報だけど。家が隣なのだ。
せんせいが大学に入った辺りからめっきり会うこともなくなっていたので、この学校で教師としてやっているさまを見た時には驚愕したもんだ。おいおいどんなドラマチック展開だよと思ったが、生き別れの兄弟が再会したとかそういうわけでもない。向こうからの親しさもこちらからの親しみも特にない。いっそ塾の知り合いにスーパーで会った時みたいな気まずささえ覚えて、しばらくは見るだけで緊張していた。さすがに一年半たってそれもなくなったけど、まさか成績を盾に生徒を脅す域まで成長していたとは。恐れ入ったよ。
俺と知り合いということでせんせいはイヴァンとも付き合いがあるみたいだった。ただし向こうの方が幼いというか人見知りするというか、お互いに借りてきた猫みたいになっていた。廊下ですれ違ったのをはた目に見ただけだから、細かいことはいまいち分からないけど。









西館二階数学準備室脇の教室ってただの物置じゃねーかよ!何を思わせぶりな発言してるんだよ!こん中に十人も二十人も入るわけねえだろ!
と、いう表情を俺は作ってみせたが、陰険眼鏡数学教師は気にするでもない。いかにもな物置を教室にすべく、放置されていた机を並べ替えたりしている。
「なー、これ絶対全員入んねえよ。部屋変えたら?」
「これで充分だよ。今日来るのは多くて五人だからね」
「は?風紀委員って全校で五人しかいねえの?」
そうなると四月のアレでフルメンバーだ。名誉職みたいなもんなのか?せんせいは机を並べ終えると窓を開けて風通りを多少改善する。
「前回来なかった奴らに声かけたから。成績が惜しい奴は来るよ。見込み五人」
「ひでえー……」
「学校行事に参加しない連中が悪い。早く座れ」
それでもお前教師かよう。成績につられて、というよりは強引に腕ひっ掴まれて来た俺の人権はどこに消えたんだ。ってか他の連中も成績欲しさに来る奴らかよ。風紀委員会じゃなくて生徒指導室の間違いじゃねえの?
「うわっ汚ね、軽音の部室かよ」
やる気なく机にもたれた俺の耳に、意外な、といっても聞き覚えはある人物の声が聞こえてきた。ぼんやり顔を上げると、入り口に突っ立ったまま中に入らないアホと目が合う。
「あれ、イヴァンじゃん。生徒指導室って本館のてっぺんじゃなかったっけ?」
「ちっげえよクソ風紀委員だよ!誰が生徒指導室なんて行くか!」
「よっぽど成績がやべえんかと思ってた」
イヴァンちゃんそこでぐっと反論につまる。馬鹿なのは不動の事実だからな。まあここにいる時点で俺も相手のことを笑えないわけだけど。せんせいがイヴァンを急かして座らせる。何故か俺の隣に。確かに長机じゃなくて、普通の教室で使うような椅子と机だけど、狭いから男二人並ぶと暑苦しいんですよね。イヴァンは相変わらず借りてきた猫状態で、大人しく指示に従ったりしていた。血の繋がらない親子かお前ら。
「あっちぃよせんせい。もう終わらせようよ。目標は『正しい学園生活』で、当番は夏休み中ずっとせんせいでいいからさー」
「それじゃあ何のためにお前らを呼んだのか分からないだろうが。俺としてはこのまま数学の補習でも構わないけどな」
「んげっ」「げえっ」
俺とイヴァンが二人揃って踏み潰されたような声を出した。補習って!補習って!!そっちの方が信憑性があると思ってしまったじゃんかよ!やだよーやりたくないよー暑いよ水遊びしたいよう。
俺がマジで泣きそうになっていると、西館の古い床にバタバタといくつかの足音が響いた。どうやら残りの連中が来たらしい。どうでもいいよ早く終わらせよう?俺のしかめっつらは廊下から漂う甘ったるい香水のにおいで更に歪んだ。誰だこんな暑い時に香水ぶっかけてるアホは。
「何だこりゃ、男ばっかりだなむさ苦しい」
「……失礼します」
おいおい来る連中全員文句言いながら入ってきてんぞ。鼻を塞いだ俺の頭を香水ぶちまけ野郎が押し潰す。俺は本日二回目のヒキガエルの鳴き声。ブヒィ。
「よーう、相変わらずイイ金髪だな?」
「……ブヒ、あーら、ルッキーニせんぱい……」
「変に名前変えんのやめろって何回言わせんだよ」
「ブヒ……せんぱい香水きっついんだけどォ……」
声の節と一緒に頭押し潰すのやめてもらえませんか。ただでさえへたった俺の髪の毛が可哀相なくらいくしゃくしゃにされる。赤毛の上級生(身長も体格も態度もでかい)は散々俺の頭を撫でくり回したあと、何の嫌がらせか俺の目の前の席に座った。物置小屋には似合わない存在感だ。
「ってかせんぱい、風紀委員だったっけ?」
「ああ。俺も今日初めて知った」
「こいつ、後ろから声かけた俺にガン付けて『ああ?』とか抜かしやがったからな。今成績マイナス5だ」
「だからわざとじゃねーっつうに」
不快そうに数学教師は口を歪める。いつの間にか手にしていた指示棒でぺちぺち机を叩くおまけ付きだ。
せんぱいルキーノ(名字は忘れた)は去年だかに文化祭だかで知り合ったんだと思う。というかでかくて目立つので、喋ったことはなくても一方的に知っている奴は大勢いるだろう。俺もその中のひとりだったわけだが、どういうわけだか他の行事でもちょいちょい一緒になる機会があって、それで多少は喋るようになったのだ。他の上級生に比べて、というだけで、とりわけ親しいわけじゃないけど。
それにしたってこちらに話しかけてきた第一声が「お前の髪いいな」ってのはどうかと思うよ。髪の毛ひんむかれてヅラにされるかと思ったぜ。
そんな理由で、あまりこの人の手が伸びる位置にいたくはないわけだが、せんせいはそんなことにいちいち気を遣ってはくれない。手にしたチェック表で眉を寄せながらブツブツ呟きつつ(「あの馬鹿どもマイナス3だな」)、不意に顔を上げて、部屋の奥に目をやった。
「ん?ジュリオ、お前は来なくてもよかったんだぞ?」
おいおい来なくてもよかったってな、委員会顧問の先生が言う言葉じゃねえだろ。つられて視線を動かした俺は、そこで凄まじいものを見た。おお、美少年だ。何か凄い綺麗な顔してるぞ。あんな顔が公立共学校にいていいのか?
「あ、いえ……」
「まあいいか、お前今プラス15くらいになっちゃってるからな〜」
「…………」
美少年は口下手なのかちょくちょく言い淀んでは口ごもる。この暑いのにボタンを上まで留めてきちんとネクタイまでしている。それでいて汗はかいてないわ髪はさらさらだわ成績は優秀っぽいわ顔はいいわ。世の中には何でも与えられた人間ってのがいるもんだな。俺の学年で見かけた記憶はないので、多分ひとつ下だろう。先輩って雰囲気じゃないし。
俺が目をやっているのに気付いたらしく、美少年は律儀に会釈をしてきた。俺は少しきょどりつつニコニコしてみたりして、隣のイヴァンの裾を引っ張る。お前知ってる?同学年?
「知るか!引っ張んな!」
「ジャン、お前は知ってるだろ。ジュリオは四月の委員会にもきちんと出席したぞ」
イヴァンのコレはただのやっかみで知らないふりをしているだけだ。住む世界が違ってそうだしな。せんせいは会議を始める様子もなくわざわざ教えてくれる。へえそう。そういえばいたような。あの時の記憶はもうほとんどないんだけど、こんな美少年を忘れるくらい物忘れが酷かったかな、俺。
「よっし、二人来ないけど始めるぞ。まずはな、夏休み前の校内風紀の乱れについてだが、これは朝校門前での呼びかけと校内掲示ポスターで……」
「せんせえぇえ〜、海行こうぜ海〜、せんせいのフェラーリでぇ〜」
「え、あんたの車フェラーリ?モデルなに?」
「そんなわけないだろ!話の腰を折るな!」
嘘だァ、俺この前家帰った時見たからね。住宅街に似合わない高級車がお隣りさんに停まってんの。せんせいの両親は高級車に興味なさそうだしせんせいが買ったに決まってるもん。
「へえ、すげえな」
「適当なことを言うなジャン!ルキーノはこう見えて口が軽いからな!変なこと口走った日には大変な目に」
「いやいや、あんたの車が何かなんて興味あんの、同じ教師連中だけだろ。生徒には意味ない情報だよ」
「え、そういうもんなのか?」
えええ、オルトラーニせんせえ、教師が生徒に言い含められて納得しちゃ駄目でしょうに。話がどんどんずれてるのも気付いてないっしょ?俺は記憶の淵から四月の会議を引っ張り出す。なるほど、あの時はせんせいが黙ってたから話がうまいこと進んでいったんだな。
「……ってか車とかどうでもいいだろ、早く進めて終わらせろよ」
「はっ、そうだった、ありがとうイヴァン。当番はここにいるお前らと今日来なかった二人がまず決定で……」
ちっ、余計なことをしやがって。最後まで借りてきた猫状態でいればいいものを。イヴァンは何だかんだでせんせいが好きなんだな。昔遊んだ記憶が残っているのかもしれない。あの頃は年上というだけで物凄く大人に感じたし力があるように思えたし尊敬だって集められた。幼少時の刷り込みは長く続くからな、本人に直す気がなければ余計そうだ。
まあ、いくらイヴァンちゃんがせんせいライクであろうとも、俺はこの時間をこの暑苦しい狭い汚い物置小屋で過ごすのは嫌だった。不毛っぽい会議に費やすのも勘弁だ。ばたりと机に寝そべり、バタバタ足を鳴らす。
「当番ならせんせいの車の中で決めようぜ〜海〜う〜み〜死〜ぬ」
「ガキかお前。ガキか。いや、アホか」
「そんなけ言わないでも……」
数学教師でなくルキーノに馬鹿にされる。というか呆れられた。降ってくる視線が痛い。
「………………そうか」
随分長い沈黙のあと、せんせいはぽつりと呟いた。今日の授業の時みたいに、その場の全員がせんせいに視線を向ける。眼鏡と長髪が顔にかかって、表情がよく分からない。
「行くぞ」
「どこに」
「海」
ハイ?あんた今マジで言ったわけ?
せんせいはむすっとした顔をしていた。不機嫌そうではあったが真面目だった。









だが。
「軽じゃん!!」
「だからでたらめを言うなと言っただろうが」
「騙された!!」
そう、軽だったのです。妙に張り切るせんせいの後ろに続いて、職員用の駐車場に向かった俺達が見たもの。それは高級車でも何でもない国産の軽自動車だったのだ!お、俺が見たあの車はどこへ行ったんだ…。
「ちなみに中古だぞ。エアコンの効きが微妙」
「乗りたくねえ!!」
陰険眼鏡教師は知りたくもない情報をいちいち喋る。ドアを全部開けて、早く乗れと俺達を促した。これに五人乗るの、無理じゃね?
「……えっと、俺だけご一緒してやるよ、他は、帰れば?」
「ふざけるなジャン。委員会なんだから全員一緒に決まってるだろ。早く乗れ」
バンバン車体を叩く。俺以下、付いてきた奴らは言葉を失って車を見ていたが、意外にも赤毛のせんぱいが先に動く。助手席だ。
「ここ以外座れなさそうだからな」
「おお……せんぱいに国産車似合わなすぎだわ……」
「まあな」
ため息。ルッキーノせんぱいは助手席ですら実に窮屈そうだ。まあ、確かにおっしゃる通り、後ろはわりと細めの俺らですらかなり狭そうではある。俺は美少年に顔を向けて、
「ええっと、君、帰っちゃえば?大丈夫だと思うけど」
と声をかけた。真上からの直射日光を浴びながら平然と立つ美少年はふるふると首を振る。
「いえ……ご一緒、します……」
「マジで?そうか、何かごめんな、俺とあの変な数学教師のせいだから」
「ジャン、マイナス30」
既に運転席に座ったせんせいからそんな声が聞こえる。ほんっとあの陰険眼鏡!自分の悪口に敏感すぎだろ!美少年は再び首を振る。身長も低くない、モデル体型のイケメンだが、首を律儀に振る様子は仔犬のようだ。
じゃあ仕方ない。
「じゃあなイヴァン。また今度」
「なんっで俺がじゃあねなだよ!」
「仕方ねえじゃん三人乗れねえんだもん」
「何でそいつじゃなくて俺を置いてく話になるんだよッ!」
「イヴァンちゃんももうお留守番くらいできる年でしょう?全く仕方のないお子ちゃまねェ」
「だからその口調やめろすんげえ腹立つぶっ殺すぞ!!」
「うるさい馬鹿ども、早く乗れ。ジュリオ以外成績マイナス50付けんぞ」
せんせいの声が低くなる。イヴァンがしゅんと大人しくなり、美少年は最初から大人しく、車の後部座席に向かう。ん〜、何か嫌な予感するんだけど。このいっこ下コンビ絶対仲悪いよね?何でか知んないけど絶対険悪だよね?ってことは絶対隣り合っては乗らないよね?つまり俺が真ん中で押し潰される役目ってこと?
……帰らせて下さい。
「狭いきつい暑い肌キモい潰されて死ぬ!!」
「怒鳴るなうるせえ喉に舌詰め込んで死ね!!」
「………………」
無理でした☆
軽自動車に男五人とかほんときっついんですけど。とりあえずここが海に近くてよかった。海岸線には近いので、砂浜に出る程度なら歩いても三十分かからない。車なら十分だ。でもその十分で俺は圧死する。
「っていうかせんせい、運転荒くね?」
「ハハハハハ気のせいじゃないか?」
「いや荒いってじゃなきゃこんなに遠心力かからなげばばばば」
「ハハハハハジャンが何かおかしなこと言ってるなあハハハハハ」
「帰りは俺が運転するわ……」
来る途中にヤバいクスリでもかっ込んだみたいになってる数学教師。おっかしいなあ普通の人だと思ってたんだけどなあ。
「っていうかせんぱい免許持ってたのうぱぱぱぱぱ」
「ん、まあな」
「生徒の免許取得は禁止だぞ没収だ没収」
「いやいやせんせい、せんせいの運転よりはマシな気がするうわわわわあああああ遠心力で死ぬぬぬぬぬ」
「全く失礼なジャンだなプンプン」
「いやあんたがプンプン言っても全然可愛くないっていうかむしろキモぐげっ」
首が変な方に曲がって舌噛みました。
「揺れる……車の、中では、あまり喋らない方が……いいです……」
美少年がありがたい忠告をしてくれるけど少し遅かったかな!









そんなコントを繰り広げている間に着きました、海。日はまだ沈む気配を見せず、向こうの沖では気の早いサーファーが波乗りに勤しんでいた。さすがに海岸線で追いかけっこするカップルとかはいないけど、近所らしい小学生が五、六人集まってやたらと壮大な砂の城を作っている。そんな中に佇む学生四人と引率教師。何しに来たんだ。
俺は首をさすりつつ、沖の方を見た。せんせいは車の中での醜態が嘘のように大人しくなり、近くのパーキングを探している。
「……結局、話し合い、しませんでした、ね……」
「あ、ああ。そういえばそんなことするんだったね……すっかり忘れてたわ」
「てめえが馬鹿みたいにギャアギャア騒ぐからだろうがこのアホ五才児」
「三才児のイヴァンに言われたくないわアホ」
「会話のレベルが小学生以下なのは変わんねえな」
ルキーノせんぱいはいかにも煙草でも吸いたそうな仕草を見せる。途中でやめたのは教師が近くにいるとか制服だからとかそういう理由ではなく、単純に手持ちがなかったからだろう。そういえば俺も手ぶらだった。携帯すら鞄の中だ。
「まっ、いーや。当初の目的は達したし」
「目的って何だよ」
イヴァンが怪訝そうな顔をする。俺は靴を脱ぎ靴下を脱ぎズボンをまくり上げつつ答えた。
「水遊びしたい」
「うわっ……」
「イヴァンに馬鹿にされた俺もう生きるの辛い」
「おいそりゃどういう意味だよ!!」
怒鳴る声を後ろに聞きつつ、俺は海の方に走り出した。砂はまだ熱い。本当は裸足で歩かない方がいいみたいだけど、残念ながら靴は向こうに置いてきてしまった。ダッシュで駆け抜けて水の中に足を浸ける。ひやっとした。冷たい。でもすぐに温かく感じるはずだ。ざぶざぶ水を蹴って先に進む。あっという間に膝上まで水浸しだ。
「……んあ?」
後ろからジャブジャブいう音が増えて振り向く。道路脇にいたはずの残り三人が揃って水の中に入ってきていた。向こうにせんせいの姿も見える。全員、靴も脱いでなければズボンもまくっていない。もれなく深刻そうなツラをしていた。
「なあに皆さん、海水で服濡らすと傷んじゃうよ?」
無言。えっ何だよ、俺そんなに悪いことした?確かに海行きたいって駄々こねたけど、来ちゃったんだからそれは不問じゃねえの?俺は叱られそうな雰囲気に何となくその場から動けなくなってしまう。緩い波が膝裏をくすぐり、ふんばってないとさらわれそうだ。
「……お前」
はた目から見ても顔を強張らせているイヴァンが、やけに固い声を出した。聞き取れなくて、俺は仕方なく数歩戻る。全員に流れる弛緩した空気。って、おいおいおい、この空気はまさか。
「自殺、するとかじゃ、」
「ハアアアア?するわけねえだろそんなこと!お前ら馬鹿か!」
イヴァンははっきり安心した顔を作る。そしてその顔をすぐに歪めて眉間にシワを寄せた。あっ怒鳴るな。俺は耳を塞ぐ。
「紛らわしいことしてんじゃねえドアホ!!」
「紛らわしくねえよ最初っから水遊びって言ってんだろ!死にたい奴が靴脱いで服まくるかってんだよ!」
「紛らわしいんだよッ!クソ、馬鹿、滅べ!」
「ほんとだよ、全く」
がし、とルキーノまでが俺の頭を首ごと固定する。う、動けないんですけど。
「あんまり躊躇いなく進むから、俺でもこれはマジだと思ったぜ」
「せ、せんぱい、首、マジで締まって、」
「つーかお前、死にたいって言って走ってったからな。タイミングの問題だ」
ヘッドロック状態の俺は本気で落ちそうだった。反省してる、反省してるからとりあえず離してつかあさい。せんぱいは首ごと俺を波打ち際まで引きずって、そこでようやく解放してくれた。くらくらしている俺の手を両手で誰かが押さえる。やはり真面目な顔付きの美少年だ。顔の綺麗な奴が深刻そうにしてると宗教画みたいで縁起が悪い。
彼は俺の手を握手するように三回ほど強く握って、それから離れて水から上がった。あんな善良そうな少年にまで心配させてしまったのか。海に入る前の俺はどんな顔をしてたんだ。
そして残りのひとりだ。
「ジャン……」
せんせいははっきり分かるほど青い顔をしていた。他人から見たらこっちの方がよほど自殺しそうな顔だ。スラックスの端が海水と砂で汚れている。
俺だって空気くらい読む。せんせいの頭の中でどんな単語が駆け巡っていたのかはさっぱり分からないけど、茶化して適当に謝るっていうのはやっちゃいけない行為だ。たとえ誤解だろうとも、笑ってごまかしてはいけない領域なんだ。だから俺はせんせいの目を見て、顔から笑みを消して、それでも明るい声を出した。
「心配かけました、すいません。もうやらないです、ごめんなさい」
「………………」
せんせいは少し黙ったあと、急に力が抜けたようにしゃがみ込んだ。長い髪の毛をわしわしとかき回し、深いため息をつく。
「はああああ……ったくよう、俺今頭の中で十個くらいシミュレーションしたよ……学校と警察と病院と父兄とマスコミに何て言い訳したらいいか考えてゾッとしただろ……」
「まあ、それもそうだな。辞職願いが必要になるだろうし」
「せんぱい容赦ないね……」
「はあああ疲れた、胃に悪いよ、死ぬんなら俺が死んでからにしてくれ。もしくは卒業したあとに」
「うわ駄目な大人だ」
俺はイイイッと口を結んだ。せんせいは駄目な大人だけど、それでもイヴァンが尊敬するような大人なので、場の空気を変えることくらいは簡単にできる。そもそも全員が勘違いしたのが悪いんだから、暗い雰囲気にさせないことくらい当たり前だ。
「……ところで、急な話なんだがね、先生」
と、ルキーノはポケットから何か紙切れを取り出した。うなだれたままなかなか帰ってこないせんせいに向かって差し出す。俺や他の二人も、何かと思って後ろに回り込んだ。表情が変わる。うなだれ数学教師は驚愕、俺とせんぱいはにやり、イヴァンはバツが悪そうな顔に。
「これ、あんたの彼女?いや、元彼女か」
「ぐはっ、るきっ、ルキーノてめえこれどこで見付けやがった!」
「ダッシュボード。駄目だぜ先生、助手席に男を乗せちゃあ」
その写真らしきものを奪い返そうと、せんせいは膝立ちのまま必死になるけど、上背のあるルキーノは簡単にかわして触らせもしない。
写真にはなかなか美人に思える女性が写っていた。せんぱいが「元」と付けたのは写真がいったんクシャクシャにされて再度伸ばした跡があったからだろう。可哀相に、別れたあと丸めて、未練がましく残してあったんだね。そんなに過剰に反応しなければ誰も何も勘ぐったりしないのにね。
残念眼鏡教師は取り返すのを諦めて、ぐったりと肩を落とした。ああ、可哀相すぎて見てられないよ。イヴァンなんて感情移入しちゃってオロオロしてるよ。美少年はあっこっちを見てすらいないよ時計を確認してたよ。
「くそ……俺が悪いんじゃないのに……二月三月は忙しくて会えないって分かってたはずなのに……」
「ふーん、残念だね、可哀相に」
「ジャンに言われると死にたくなる……」
「ちょっとちょっと先生それどういう意味」
本日二人目の入水自殺未遂者を出さないために、俺はせんぱいに目配せをする。いかにもモテそうなせんぱいはそれをどう受け取ったかは知らないが、がしりとせんせいの肩を掴んだ。
「まあまあ、そういうこともあるさ」
「『俺はないけどね』って顔しながら言うな!もう俺帰る!お前ら歩いて帰れ!」
「まあまあ、ちゃんと車に戻して言い触らしておくから」
うわっ、と可哀相なせんせいが顔を覆った。……さて、日も落ちてきそうだし、そろそろ学校に戻りますかね。
ところで、風紀委員会会議はどうなったんだい?





2011:02:26