理科棟四階の地学講義室は真夏だというのに妙に涼しくて、人が少ないせいなのか理科棟自体が妙に閑散としているせいなのかよく分からなかったが、とにかく俺はそこにこもっていた。わざわざ部屋を開けてもらってまで行うような部活ではなかったが、風通りも日当たりもいいので、家よりはましかなと思って出てきたのだ。
まあ、その静寂は三十分くらいでぶち壊されたわけだが。
「ごわあああああああぎゃああああああ」
奇声を上げながら扉に突っ込む勢いで入ってきたのは稲垣祐介だった。稲垣は机をかき分けつつ教室の端まで移動し、窓にびたっと張り付いた時点でようやく止まった。ぜいぜい荒い息を吐いている。俺に気付いているかも怪しい。
さてどう突っ込もうかな、と思っている内に、稲垣が顔を上げた。「おおっ!」と俺に目を合わせる。うるさいのが復活してしまった。
「幹じゃん!何でいんの?部活?」
「避暑」
「秘書?」
「稲垣は何やってんの」
「俺は思いっ切り部活じゃんよ!このボーンが見えねえかい!」
稲垣はふん、と胸を張って、何も持っていない手をばたつかせた。教室に置いてきたらしい。ああ、そういえば少し前から金管の音がプースカ聞こえてくると思った。稲垣は一応吹奏楽部である。
「ってそんなんじゃねえよ!幹いいところにいたよちょっとマジ聞いて!」
「聞きたくない」
「そんなこと言わず!なあなあ知ってた?森下って彼女いるんだって!なあなあ!」
「へえ」
「反応すくねー!何その無感情無反応は!幹ってそんな奴だったっけ?」
「じゃあ俺から稲垣も驚く話をしてやるよ」
「なに?なになになに?」
「安川も彼女いるんだって」
アンギャー!!と稲垣はまた聞くに耐えない悲鳴を上げる。おいおい、ここはカラオケルームじゃないんだよ。隣の地学準備室にはきちんと顧問の先生がいるんだけど。俺はそんなことを思ったが特に注意はしない。稲垣のテンションは一瞬で上がりまた下がる。付き合っているとこちらが疲れてしまう。
稲垣は机と机の間をよろめきながら立ち上がると、どうにか椅子をひとつ見付けてどっかりと座り込んだ。部活に戻る気はあるんだろうか。いかにも始まったばかりのように思えるんだが。
「ええ……急にテンション下がったし……マジで森下も安川も彼女持ち?」
「さあ。森下に関しては俺はスルー」
稲垣も森下も安川も同じ電気部のメンバーだ。けれど俺以外全員が兼部しているので、集まりはいつも悪い。それぞれメインの部が休みの時にしか来ないのだが、全員陰気にも文化部なので、冬も夏も特にシーズンがないのだった。
安川に関しては一応メインは文芸部だと思う。その中の部員である山田さんという女子と、まあ一緒に帰ったりご飯を食べたり休みに遊んだりしている様子なので、世間はそれを付き合っているというんだよと教えてやったら、本人はいつもの何も考えていないような笑みのまま「へえ、そうなの」と言った、というだけの話だ。言質はない。
と、そんなことを稲垣に話す。稲垣は机に顎を乗せつつへえへえと連呼した。ついでに森下についても聞いてみる。森下は漫研がメインの線の細い眼鏡で、大抵機嫌悪そうに漫画を読んだり描いたりしていた。森下が彼女持ちというのは確かに意外だが、ああ見えてやる気も責任感も普通にあるので妥当なところだろう。そんなことより稲垣がいちいち落ち込んでいることの方が不思議だった。
「森下はー、何か俺の姉ちゃんの友達が森下の兄貴らしくてー、そっから回ってきた」
「えっ、何お前ら兄弟いんの?」
「えっ、幹がそこまで驚いて食い付くの初めてじゃね?うんいるよ。今大学三年」
世間は狭い。俺には兄弟というものはいないが、兄弟で知り合いがかぶるというのはあまりないんじゃないだろうか。
「はあああ……妙にショックだよ……俺だって二度とない高二の夏に彼女と出かけたりしてえよ部活でロングトーンとかしてないでさあ……」
「へえ」
「幹はそういうのねえの?」
「稲垣がそういうのに満ち溢れすぎてるだけじゃねえの」
「そうともいうけどさあああ」
稲垣はばたりと顔を伏せた。まあ、正直その青春像に理想を感じないでもないが、理想を達成するためには性格の改善が必要な気がする。最近は同じクラスの究極の無反応生徒機刈裕に影響されて、あれこれといちいち興味を持つのが面倒でたまらないのだ。というわけで適当に過ごすことにする。
広げていた本を閉じて、改めて稲垣を見ると、まだ気落ちしてダラダラしていた。同じ部活の奴らは部員が練習中にいきなり消えてもいちいち探しに来たりはしないのだろうか。稲垣は緩い部活だと言っていたし、ここにいる時は他の部活の話はあまりしない。それこそ噂話程度だ。森下がいない時は森下の話、安川がいない時は安川の話。俺がいない時は俺の話をするんだろうか?
「だりー……テンション下がるー……なあ幹ー、腹立たしいから奴ら全員誘ってしょうもないところに出かけようぜー。公民館とかそういうところ」
「ほんとどうしようもない場所だな」
「だって楽しい思いとかして欲しくねえしさあ、ついでに藤崎先輩も誘おー。あの人が来ればぎゃあぎゃあできないし」
藤崎というのはひとつ上の先輩で、元電気部の部長である。小柄で目付きが悪く、少し時代がかった喋り方をする、色んな意味で現実離れした人だ。
「藤崎さんは受験だから来ないと思う」
「この前帰りに会って話したらオッケーだって笑顔で言われた」
「………………」
「嘘嘘嘘!ごめん俺も幹が突っ込んでくれないの忘れてた!先輩とはそういや全然会ってないんだわてへへ!」
「早く部活戻った方がいいよ?」
「心配が身に刺さるようだよ!へいへい戻りますってよー。じゃーまたマジで連絡するわ」
「はいはい」
嫌がらせを考えたらテンションが元に戻ったのか、稲垣はよっと体を起こすと、手を振りながら地学講義室を出ていった。何だ最後の不吉な捨て台詞は。無視していいんだろうか。
稲垣が出ていくと急に静かになる。向こうの校舎から吹奏楽部らしい音が少し聞こえるけど、理科棟でやっているわけではないらしくそこまで気になるものではない。俺は閉じた本をまた開いて、今度こそ静かでそこそこに涼しい空間を満喫することにした。とりあえず、お昼まで。





2010:09:05