部屋に帰ってくると、むっとした熱気の中で兄が死んでいた。いや、正確に言えば死んではいないが、窓際で死にそうになっていた。
兄は俺が帰ってきたのに身動きもせず、様子を見ようと近くまで寄った時点でようやくごろんと転がった。眠そうな顔が大汗をかいている。
「おー……康浩ぉ……」
「おーじゃないだろ、何死んでんだよ」
「死んでないってー……生きてるよおー……」
語尾を伸ばしてへらへらと笑う。俺はもうこんな奴どうでもいいと思いたくなってきたが、同じ部屋で死なれても色々困るので、とりあえず生かすべく行動を開始してみる。窓を開け扇風機をセットしついでにタオルを濡らして頭にかぶせ、かいがいしく冷蔵庫に飲み物まで取りに行ってやることにする。冷蔵庫の中身は朝出かけた時から減っていなかった。部屋に勝手に入った代わりに冷蔵庫の中身には手を付けないという妙な親切心だろうか。無意味だ。
「描、起きれんの?」
「余裕〜……使える弟だねえ……」
窓際の兄に声をかけると、兄は少し冷やされて気分がよくなったのか、部屋の角に寄りかかっていた。あいにくスポーツドリンクの類はなかったので、適当な炭酸飲料を渡すと、兄はひぃいいとか言いながらひと口で半分くらい飲みやがる。
兄の名前は森下描という。これでビョウと読む。ただし字が汚い上に丸文字なので、大抵の人は猫に読み間違える。森下ネコ。ただしあまりにもな名前なので、読み間違えたとしてもネコのままで呼び続けている人は少ない。
兄はほとんど飲み干した炭酸を床に置くと、ようやくひと息ついたのか辺りをぐるりと見回す。俺と兄はあまり似ていない。
「相変わらず、ほとんどものがないねえ」
「押し入れん中に全部しまってるだけだよ。来る度同じこと言ってない?」
「だってなあ、高校生の弟がひとり暮らしなんてさあ、心配になるってもんじゃない」
よく言うものだ。真っ先に合鍵を作って入り浸る人間の言う台詞じゃない。兄が勝手に出入りすることを知ったので、俺は表にはほとんどものを出さないことにしたのだ。兄はしまってあるものには手を出さないから。
俺が黙っていると、兄はぼんやりと窓の外を見ていた。夕日が水平に射していて、窓際から玄関まで長い影が伸びている。回っている扇風機が時折俺と兄の髪を揺らしたが、あまり暑さ対策にはなっていなくて、じわじわと額がべたついた。兄はぼうっと表情をなくしたあと、例の間延びした喋り方で呟くように話す。
「心配しなくてもさあ、そろそろイガキさんちに移動するからさあ」
「イガキ?」
「そう、隣のイガキさん」
「隣は稲垣さんだけど。イガキって誰?」
兄はそこでようやくぽかんとした顔になる。「稲垣?」と口元が動いたので、俺はそうだというつもりで首を振った。隣の稲垣さんは若い女で、多分大学生だと思う。常にサボりがちな兄とは対称的に、俺と同じくらいに出て、俺より遅く帰ってくる人だ。
「はあ、稲垣っていうのか、板垣か稲垣か分からなくてさあ、適当に呼んでた」
「あんたまさか、俺んとこだけじゃ飽きたらずに人様ん家まで入り浸ってんの?」
「飽きたらずは酷いなあ。イガキ、いや稲垣さんにはきちんと了解もらってるよ」
「描、稲垣さんと付き合ってんの?」
兄ののらくらした言い方が気持ち悪くて、俺は直球で言いたいことを聞いてしまう。兄は目を丸く見開いたあと、急にぎゃはははと大声で笑い出した。ついでに俺の肩をバンバン叩く。
「何だよ康浩〜!お前いつから兄貴とそんな話できるようになったんだよ!成長したなあ」
「いたっ、痛いって、やめろよ」
「しょうがねえじゃん嬉しいんだからさあ〜、そうかそうか、そうだね、付き合ってないよ?俺が勝手に入り浸ってるだけ」
何だそりゃ、と俺は思う。付き合ってもいない女性の部屋に入り浸るってどういう関係だ。稲垣さんが鍵をかけずに出かけているとは考えにくいから、兄は稲垣さんの部屋の合い鍵まで持っているということになる。大家じゃあるまいし、下手をすればこのアパート全部屋の合い鍵まで持ってそうだ。住んでもいないのに。
などと俺が余計なことを考えていると、兄は肩を叩くのをやめて腕を回し、楽しそうに含み笑いをしながら顔をぐいっと近付けた。暑苦しいからやめて欲しい。
「え、これってさ、俺も康浩に彼女の有無を聞いていいってことだよねえ?」
「よくねえよ、離せ馬鹿」
「話さないんなら推理しちゃうぞう、ずはりいるんだろ?しかも年上だな。稲垣さんと同い年くらいかな?」
「いないって」
つい動揺する。何だこの妙な洞察力は。ほぼ正解じゃねえか。俺はつい年上には思えない年上の彼女のことを連想してしまう。頭の中の彼女はナハーッとした表情で困ったように笑っていた。兄はにやにや笑いつつ、ようやく腕を離す。壁に寄りかかって、残りの炭酸を飲み干し、空のペットボトルをそっと壁際に置く。捨てに行くつもりはないらしい。
「やー、そっかそっか、康浩にもきちんと彼女がいたのか。いつも漫画ばっか描いてるからさあ、お兄ちゃん心配だったんだよお」
「気持ち悪いからその喋り方をやめろ馬鹿」
「なあなあ、紹介しろとは言わないからさ、今から飯食いに行こうよ。この部屋暑いしさあ、どっか涼しいファミレス的なところでさあ」
「稲垣さんはどうすんだよ」
「だから約束してるわけじゃないからさあ、俺が来なくてむしろほっとしてると思うわけよ」
兄は俺をせっついて立ち上がらせ、窓を閉めて扇風機のコードを抜き、早足で部屋から追い出した。手持ちの合い鍵で鍵も閉めてしまう。俺は兄の妙な行動力に呆れていた。この調子だと、稲垣さんの部屋に無断で忍び込んでるんじゃないだろうかという妄想が働いてしまう。
外はまだまだ暑くて、アスファルトから熱気が立ち上ってくるようだった。兄は妙に生っ白い腕をかざしながら、隣の駅まで行くかと俺を誘う。俺も兄も定期券外の下りの駅。まさか歩いていくつもりじゃなかろうな。俺の体力を甘く見ないで欲しい、さっきのお前みたいに倒れてやるぞ。
ところが兄は文句なんか言わせない。間延びした腹立たしい口調で俺の私生活を外堀から埋める質問をしてくる。あんまりにも鬱陶しいので、俺は兄の頭を叩く。少し高い位置にある頭は簡単に揺れたが、兄に怒る気配はない。この妙な大物臭はどうにかならないかな、なんて、隣の稲垣さんも思っているんだろうか。





2010:09:04