夏だった。どれが一番の理由かは分からないが俺は夏が嫌いだった。暑いのも蒸れるのも嫌だし、日が長いのも食欲がなくなるのも嫌だし、とにかく嫌なことを挙げたらキリがない。しかし今日この日に限っては、気持ち悪くなるのが一番だろうなと自分で思わざるを得なかった。
ごぱっと喉が鳴るような気がして、俺の胃がビクンと収縮する。やばいと思った瞬間にはもううずくまっていて、どこかの排水溝に胃液を吐き出していた。昼間にものを食べていなくてよかった。食べていたらこの程度のでは済まない。
胃酸か何かで痛くなった喉を抱え俺は思いっ切りむせていた。大抵は吐いたら気分がよくなるはずなのに、今日に限ってはそれがない。顔は涙と鼻水と汗とよだれでぐちゃぐちゃだし、腹や足がむちゃくちゃに痛んだ。特に腹が痛い。触るとそれだけで体が引きつりそうだ。俺はガホゲホやりながらこんな目に遭わせた人間に対する暴言を吐きまくった。ちくしょう、死ねばいいのに、ゲロにまみれてとっとと死ね。
俺の足を払い腹に思い切り蹴りを決めてくれた人間は、三十メートル前からのろのろとこちらに歩いてきていた。自分が蹴った人間が吐くなんて初めての経験なのかもしれない。実際、よく考えてみれば吐くだけで済んだなんて信じられないくらいの幸運だ。平和島静雄に蹴られて上半身が弾け飛ばないなんて、俺の体もよくよく出来ているものだ。
平和島クソ雄は俺の手前一メートルまで近付き、吐いた跡を見ないようなポジションに陣取った。暴れ島ハゲ雄のクソはとどめを刺すことを躊躇しているらしい。平和島ゲロ雄の癖に妙な遠慮と配慮と仏心を持とうとしているみたいだ。俺は腹をかばいつつ、どうにか顔を上げてよだれを拭った。
「きったねえな」
平和島キモ雄は初めてゲロを吐く瞬間を見ましたとでも言いたげな様子で(つまり目を丸めて)上からそう言い捨てた。俺はこんな阿呆に反論する言葉すら勿体ないという気分だが、このゴリラ島ムサ雄に人間の常識を教えてやらないとという気持ちがないわけでもなかったので、簡単な言葉を選んで腹の奥から捻り出す。
「とっとと捕まって死ねばいいのに」
「お前が何もしなきゃ何もしねえよ」
「腹蹴ったのはどっちだと思ってんだよ!」
「避けたじゃねえかよクソ野郎」
あいたたた。叫んだだけでまるで拷問みたいだ。もう喋るのはやめにしよう。というかこの枯葉島渋雄に何かを教えるなんてことは絶対にやめにしよう。人間外の生き物に人間の常識が理解できるはずがない。俺は周りを見渡して、驚いたことに誰もいないことを確認すると、電柱に寄りかかりつつずるずるはい上がった。もう帰ろう。さようなら平和島馬鹿雄。願わくば二度と俺の前に姿を現さないでくれ。そして願わくば慰謝料でもよこしてくれ。内臓が傷付いていたらどうしてくれる。毎回思う。早く死ね。お前が死んだらその灰を下水施設に持っていって、一番最初の汚物沈澱層に沈めてやるから、ありがたいと思えばいい。
夏は嫌いだ。どこかの怪力男が調子に乗って人に気を遣う。俺の背中をさすろうとする。俺は腹が痛くてナイフを振るえないから抵抗できなくてただ震えるだけだ。もう一回この汚物野郎の顔面に吐いてやろうとも思うが、残念なことに胃液すら出てこない。出てくるのは涙だけだ。全く、この涙が強酸で、平和島死ね雄の頭を溶かして五百円玉サイズの十円ハゲを十カ所くらい作ればいいのに。
「臨也、平気かよ」
ああ、ついに幻聴が聞こえてくる。クソ野郎が俺を心配している最悪な声。いっそ死にたい、触られ死ぬっていうのはまさにこのこと。俺は馬鹿みたいにめそめそ泣き続け、胃酸代わりの涙で自分の服を濡らした。早く夏終われよ。





2010:07:20