『あなたが自分のことをどう扱おうと勝手だけどね、その妄想に私を付き合わせようとするのはやめて欲しいね。その言い方だと私の思考をコントロールしているように感じるんだよ。それだけはどうしても気に食わない。それ以外は勝手だ、死にたいなら死ねばいいよ』
画面には返信を迷っている俺の代わりに次々と文字が打ち出されている。俺はその文字を横目で追いつつ、キーボードに目を走らせてどうにかこうにか相槌を打っていた。
『わるかった』
『どうして謝るの?謝るくらいなら最初からやらないでよ、そういう意味のない謝罪が一番好きじゃないの。哀れに思われるのも思って欲しいと思われるの好きじゃないのやめて欲しいの』
『ごめん』
やめてよやめてよやめてよ。俺がひとつ打ち込む間に画面はどんどんスクロールしていく。気分が高まると句読点がなくなるのはユウカの癖だ。俺はくそ、と舌打ちする。これだからパソコンのチャットなんてものは嫌いなんだ。これだけのことを言うのだったら最初っから素直に電話でもかけてくればいいのに。俺はその後もどんどん続いていく文字列を追うことを諦め、粗末な机に置かれている貧弱なノートパソコンを閉じた。画面から発する光がなくなると、この部屋はとたんに暗くなる。蛍光灯が切れかけているのだ。薄暗い部屋の、更に薄暗い隅に寝転がって、俺は携帯を開く。着信も何もない。
ユウカのあの喋り方はチャット上だけの嘘っぱちだ。本当はあんな喋り方はしない。というか、ユウカはネット上では随分とテンション高く振る舞っているようで、チャットルームに他人が入ってくるや否や凄まじいスピードでログを流し(元々ユウカひとりが喋っていたようなものだ、俺のみが入室している時は)、楽しげに会話を始める。それは二十歳という年齢にはまるで見合わない幼い口調で、俺はそれを見るのが嫌で大抵すぐに抜け出してしまう。
ガタガタ、と薄い玄関の前から音がする。その音と同時に妙に甲高いメールの着信音。雰囲気と相まってまるで幽霊でも出たんじゃないのかと思うが、相手を確認してそんな気持ちはどこかに吹っ飛ぶ。ユウカ。
『開けて』
立ち上がってそろりと鍵を外してのろのろと扉を開ける。ユウカはいつもの通り肩までの髪を微妙に振り乱して、いかにも急いで出てきましたというようなTシャツとダボダボのパンツ姿で立っていた。俺を見た瞬間、「ごめんねええええ」と泣き出す。いつものことなので腕を引っ張って部屋に入れる。電気は点けない。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を見たくもないし見られたくもないだろうと思う。
何もない部屋で、さっきまであった机とパソコンは隅に寄せ、中心に二人で向かい合うだけのスペースを作る。俺は正座、ユウカも正座。ユウカが謝りたい時はいつもこうだ。できるだけ長続きしないように。すぐに終わりますように。
正座をして背中を丸めながら、ユウカは聞き取り辛い発音でべそべそ泣いていた。
「さっきは酷いこと言ってごめんなさいいい……だってヤスヒロが死にたいとか苦しいとか言うから何か不安になっちゃってそうなったらもううえっ、ひぅっ、ううう……」
実際の発音は「ざっぎはひどいごといっでごべんばさいいいい」くらいだが、意味が通るように俺の脳内で勝手に置き換えておく。俺ははいはい、と適当な返事をした。
「うん、謝ってくれてありがと。俺も変なこと言っちゃってごめんね」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいこれからはもう酷いこと言わないから」
まだベソベソ。俺は自分の迂闊さを多少呪いたくなる。ユウカが何でも素直に受け止めることは知っていたはずなのに、少なくとも知人や好きな相手のことになると、ユウカの防御力はゼロに近くなってしまうのだ。それでよくこの年まで派手な詐欺に合わずに過ごしてきたなと思う。俺は痺れ始めてきた足をさすりながら、ついでにユウカの頭を撫でた。ユウカの頭は何も入っていないんじゃないかと思うくらいにすべすべしていて、暖かかった。
しばらくするとどうにか泣きやんだので外に出ようと誘う。というかこの夜中に勝手に家から飛び出してきたユウカを家まで送らなければならない。手をぶらぶらさせて歩いていると、ユウカが手首を掴んで後ろに引きずろうとしている。そこは手を繋いでくれよ、と思わないでもないけど、明日も学校だしこんなところで我慢比べをするつもりはなかった。気分が鬱状態から戻って、深夜という時間がネット上のハイテンションを生んでいるらしいユウカは、妙に明るい声でけらけら笑っている。
「ヤスヒロくん、力強くなったねえ。握力どのくらいになった?十五キロくらい?」
「二十八キロ」
「それは凄い!じゃあ私はもう勝てないなあ、昔はそうでもなかったのになあ、つまんないなあ」
「ユウカさんお酒飲んできたの?」
「私飲めないもん、ヤスヒロくんが飲むなら持ってきてあげる」
「俺高校生だし明日学校。年上なら年上らしくしてよ、俺が補導される」
はーい、と頷くユウカは明らかに状況が分かっていない笑顔で手を上げる。これで四歳も年上なのだから世の中の成人基準は間違っていると思う。身長だって俺より低いし頭だって悪いしチャットをすれば口調を変えるし。 統一感がまるでない。
自宅の三十メートル手前でユウカは俺の右手をぐっと強く握った。その握力たるやとても三十キロじゃ収まらない。俺が顔をしかめるのを見て安心したのか、ユウカは最後まで機嫌よさげに手を振って家の中に消えていった。俺は少し赤くなった右手を振りつつ、小走りでアパートに戻ることにする。時間は深夜一時、ぼんやり光る街灯の中をユウカの泣き顔でも思い出しながら走る。あの顔は夜の怖さを緩めてくれる。彼女のいいところは、あのぐちゃぐちゃの泣き顔が筆頭だな、と何となく思う。





2010:07:12