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雪の部屋をノックすると、中から随分と掠れた声がした。何を言っているのかはよく分からなかったが、どうやら入っていいということらしい。俺はチワーッスなどと大げさなかけ声を出してドアを開ける。 五色雪、つまりは俺のひとつ年下の妹は、着替え中などという面白イベント発生中であるはずもなく、頭まで布団をかぶってぜえぜえ言っていた。俺が入ってきたのに気付くと、ずるりと布団を剥いて顔を出す。汗と脂と熱で顔がぐっちゃめちゃだ。 「おい、名前の通り車に踏まれてどっろどろになった黒い雪の顔してんぞ」 「……うっさいな……食うもんよこせ……」 間にいくつか咳をはさみ、単音全てに濁点がついているような発声で、雪は俺の持つ盆に手を伸ばす。病人をいじめても不毛なだけなので、俺は大人しく盆を床に置いた。雪は布団からずりずり這い出し、腕の力がないのかぼてっとベッドの端から崩れ落ちる。それでもどうにか身を持ち直し、きちんと半分体を起こす体勢になった。まるでゾンビである。 雪は窓の外と俺の顔を見回し、腫れぼったい顔でこちらを見下ろした。俺は盆が雪の蛮行によってひっくり返らないよう、床にあぐらをかいて病人セットを守っている状態だ。 「……時雨、学校は?」 「俺は無遅刻無欠席に全く興味がない人間だ」 「妹の看病のために休んだっての?」 「そうそう」 「キモッ」 「分かってると思うが」 げほっ、と一回咳払いをする。断っておくが、別に妹の風邪がうつったわけではない。俺が持ち込んだ風邪が、家中に伝染しているのだから。 「お前のために休んだわけじゃない」 「知ってるよ」 ふう、と雪はため息をついて、じっと壁を見つめた。隣の部屋の様子でも透視しようとしてるのか?気持ち悪い人間である。 「雲も風邪になったと」 「その通りだ」 雲は俺の七つ年下の妹である。 俺の持ち込んだ風邪は俺、母を経由し、妹二人に同時に感染した。昨晩から調子が悪かった雪に引き続き、健気に姉を心配していた雲が今朝ダウンしたというわけだ。共働きの両親に代わり、俺が面倒をみているというわけである。 「つーわけで雲はお前のせいで風邪になったんだ、この馬鹿者め」 「諸悪の根元って言葉知らないってかクソやろっ、げほっ、がほがほ」 得意の暴言も咳が邪魔をして精彩を欠いている。俺はここぞとばかりに普段の嫌がらせのお返しをしてやろうと思ったが、それも大人げない。盆を持ち直し、俺手作りのおかゆを雪の口元に近付けた。雪は露骨に嫌そうな顔をする。 「やめろっ!自分で食えるわ!」 「楽しいからいいじゃねえか。嫌がらせにもなるしな」 「百パーセント嫌がらせだろうが!雲にやってりゃいいだろ!」 「雲は何故か『兄さん、自分でできるよ』と言ってぱくぱく食べてさっき寝てしまったんだ。いやーあいつはお前と違って実に出来がいいよ」 「確かに出来がいいわ色んな意味でな!う、うっ、けぱっ」 雪は怒鳴る途中で声をつまらし、妙な声で咳き込んだ。その声色に聞き覚えがある俺は、ついっとかゆを引っ込めて一メートルほど後ろに下がる。 「けぱっ、けんっ、けぱぱぱっ」 雪が苦しそうな顔で咳き込み、くるっと戻って布団をひっかぶった。俺は自分が小学五年生の時のことをまざまざと思い出していた。 夏のある暑い日のことである。俺と雪は一緒に帰っていた。確か夏休みも近くて、給食を食べてすぐ下校になったのだ。俺は早帰りが嬉しくて飛び跳ねるみたいに家に向かっていた。何がそんなに楽しみだったのかは知らないが、どうやらその頃から内向的な性格だったらしい。道路が照り返しで酷く暑かったのも原因のひとつだったのかもしれない。 雪はその時妙に静かで、学校から家までの十五分間全く喋らなかった。家に着く直前になって、後ろからよたよた着いてきていた雪が、妙な声を漏らしているのを聞いた。「けぱぱっ」 俺はその時特に不審にも思わなかったらしい。聞き間違えだと思っていたのだ。家の鍵を開ける直前になって、もう一度、今度はもっと大きな声で「けぱぱっ」と聞こえた。振り返ると、雪が蒼白な顔で喉と口を押さえていた。頬は不自然に膨らみ、呆然とする俺の横を通りすぎ、家の前の排水溝にひざまずくと、 「けぱぱぱっ」 という妙な声と一緒に、盛大にさっき食べた給食を吐き出したのだった。 その時のことをまざまざと思い出し、俺はブルブル身を震えさせた。人が嘔吐する場面などあまりみたいものではないのに、あの妙なえづく声が耳に残って、あの恐ろしい夏が頭から消えてくれない。あの声!妹が発しているとはとても思えなかった(実際、雲はそんな声を発しない)。その声が、こうして目の前で繰り返されている! 「ゆ、雪ちゃん、き、気持ち悪いのかな?」 「お前という存在が気持ち悪い」 「分かった、やばくなったら俺にも雲にも知らせずトイレに駆け込むんだぞ。俺はあと一時間は自分の部屋にこもってるからな。後始末もしっかりして、」 「何言ってんだクソ野郎。誰が吐くか」 雪はくるっと顔をこちらに向けて、ジト目で俺を睨んだ。盆と一緒に扉のすぐ近くまで後退していた俺は、は、と 声を出して立ち止まる。 「吐かないの?」 「ただの咳。飯よこして。食べさせなくていいから。雲も同じもの食べたんでしょ?」 なら平気、とばかりに俺から盆を奪い取る雪。あの雲を毒味に使うとは、こいつには血も涙もないのか。汗と脂はあるみたいだが。 盆を下げなくてはいけないので、雪がひとりで食べる様をじっと眺めている。雪の数少ない美点を挙げるなら、他人が食べる様子は九割型気持ち悪いが、こいつの食いっぷりは気持ちがいいという点だ。食べ物が胃の中に直接吸い込まれているような食べ方をする。それは病気の今も同じらしく、ばくばくとかゆを食べ尽くし、添えてあったお茶を一気飲みした。渋い顔をする。 「舌がおかしくなってる。炭酸持ってきて。寝る」 「全部命令かよ」 雪は答えない。すぐ寝るということはしないが、じっと布団を見ている。呼吸が長くて重い。この部屋にあるのは俺が持ち込んだライノウイルスだろうが、こう近くにいちゃぶり返しがあるかもしれない。俺は雪の言うことを聞くことにし、大人しく盆を掴んで立ち上がった。その途端、雪はブルブル震えだした。冷えたらしい。 「寒すぎる……」 「今何月だと思ってんだよ」 「真冬……」 真面目な顔でそんなことを言い、雪は来た時同様布団を頭までかぶった。布団の中でがくがく震えている声がする。そんな様子まで事細かに見ていても仕方がない。雪のファンクラブに報告するわけじゃないし(ちなみにそんなものは存在しない、だろう、きっと)、さっさと下に戻ることにした。 盆を流し台に突っ込んでから、さっきの「けぱぱっ」は何だったんだろうと考える。吐く声でもない、咳き込む声でもないとすると、 「……腹の鳴る音?」 という推論が成り立つかもしれない。腹は満腹でも空腹でも鳴るし、胃が震えて未消化物を吐き出すのだから、ありえなくもない。それにしてもミラクルな音には違いない。 妹のことはその辺りにして、俺は時計を眺めた。何とまだ九時前である。休む必要もなかったかもしれない。二時間目からは行こうかななんて考えが浮かぶが、可愛い妹のためだと思い直して俺はリビングのソファーに寝転がった。 夏休みにはまだまだ遠い、六月の最初である。
2009:11:24
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