おい、と唐突に声をかけられたので、私は勢い余って前につんのめりそうになっていた。慌てて床(というかただのコンクリート)を掴んで、落ちないように努力してみる。
声で分かったけど話しかけてきたのは渡辺で、長い黒髪をくくりもせず流したまま、眠そうな目で窓際に肘をついていた。
「そんなとこで単語帳読んで、集中できんの?」
「わりと今の今まで集中してたわよっ!後ろから声かけんな落ちるかと思ったわ!」
「そこ、元々乗っちゃいけない場所」
渡辺はぴっ、と私の座る場所を指差す。ここは、ベランダと言えば聞こえはいいけど、一体何のためにあるのかよく分からないスポットだった。窓際の一部にだけ、厚いコンクリートがひさしのようにくっ付いているのである。隣の教室にも似たようなものが付いていて、こんな一部分だけ付けても落下は防げないと毎回思う。素直にベランダを作ればいいのに。
というわけで、私は何だかんだとびくびくしているわけだ。調子に乗って暴れたら下に落ちるしそもそも教師に見付かる。今日は休日だし、この棟は校舎の端っこに位置していて、そもそも人通りも利用者も少ない。とはいえ、見付かったら叱られるし、こんなどうでもいいことで叱られるのも気分が悪い。下からは見えるけど教室からは見えない高さだ。知ってるのは渡辺くらいだろう。というかいちいち覗き込んできたのか。
渡辺は伸ばした指で私の単語帳も示した。見せろということらしい。渡す。
「へー、ここまで行ってんだ。何回目?」
「二回目」
「覚えた?」
「さっぱり」
渡辺から受け取って私はぱらぱらとページをめくり始める。見たことがあるはずなのだが、全く意味が出てこない。直射日光が当たって眩しい、ついでに暑い。
渡辺は欠伸をする。
「ほう。だから怖さで単語を克服する作戦か」
「どんな作戦よ」
「いや、だからさ、そこ怖いっしょ?落ちるかもって」
「まあそこそこには」
「だから、単語も一緒に覚えることで、恐怖を相殺しよう、という」
「そんな効果あるわけ?」
「そんな効果のためにいちいち足開いて窓乗り越えたの?女子がそんな真似するとは情けないな」
「あんたに言われたくないわよ!」
渡辺は膝丈のスカートを手で持ち上げて、発車しようとする電車に走り込んだことがある。あとから続いた私も、中にいた乗客も呆然とする行為だった。見た目は大和撫子の癖に、行動が全然伴ってない。上半身しか見えないけど恐らく今も、足は大股を開いて楽なポーズを取っているはずだった。
「暑いからってスカートを膝上二十センチまでまくったあげく、輪ゴムで結ぶのはどうかと思うな」
「誰も見てないからいいのよ」
「まあ私も短パンだから人のことは言えないけど」
「そもそもスカートじゃないってか!」
これ以上単語帳を見ていてもひとつも入ってきそうになかったので、私はいったん本を窓際の机に置いた。手で渡辺にどくように合図し、ぐわっと足を開いて一気に窓を越える。他人の椅子に足跡がついたが、適当に払ってなかったことにした。渡辺はほお、と感心したように目を細める。
「よくもその身長で窓を越えられるもんだわ」
「どうもありがとう。コツがあんのよ」
「羞恥心を捨てるコツが?」
「体の移動のコツ!」
渡辺は本当に短パンだった。ワイシャツに短パン。裾はどちらもまくられていて、意外に白い手足が飛び出していた。
不意に疑問に思う。
「あんた、その格好で学校まで来たの?」
「まさか。スカートは部室だ」
あっけらかんとした表情で答えられる。さすがにそこまで馬鹿じゃなかったか。渡辺はつい、と私の前にある単語帳を指差した。
「それ、またベランダでやるの?」
「もー暑いからやんない」
「あっそ。図書館?」
「図書館の移動がめんどい」
「あっそ。じゃ、部室でやれば?」
渡辺の部活は文芸部である。三年の夏に活動しているはずがないので、先輩をいいことに居座っているんだろう。渡辺繋がりで文芸部には知り合いが多い。見知った三年の名前が挙げられた。
私は頭をかいて、単語帳を手に取る。
「文芸部、涼しい?」
「風は通るね」
「じゃーお邪魔する」
「分かった」
渡辺は頷いて、開きっ放しの窓を閉めた。閉じて分かったけど、今日の風は意外に気持ちがよかった。これは文芸部も期待できるかな、などと思いつつ、私と渡辺は教室を出ていった。





2009:07:13