ガツン、ガツン、と向こう側から聞こえてくるのは多分誰かが壁を蹴る音だろう。そう離れた場所にいるわけじゃない、むしろ同じ空間から響く音だ。もっとありていに言ってしまえば、ひとつの長い円柱を想像してもらいたい。井戸の底のような、しかし頭上は塞がれている円柱である。俺はその壁に寄りかかり、恐らくもうひとりの奴はひたすらその壁を叩いている、もしくは殴っている最中なのだった。
俺はふうと息をつく。この円柱は不思議な空間だと思う。五感がことごとく鈍っている。暗闇に慣れても前も見えないし、ガツンガツンと壁を殴る音ですら遠い向こうの出来事に思える。鼻も利かないし、今自分が立っているのか座っているのかですら曖昧だった。どうやら材質は石らしいけど、味覚を試そうとも思えない。更に絶望的なことには、俺はどうやらここから出られそうにもないということだった。
ガツン、という音が不意にやみ、向かいの誰かがため息をつく音が聞こえた。
「……駄目だね。当たり前だけど壊れそうにもないよ。僕の手が粉々になる方がよっぽど早そうだ。さて、これは困ったね。一体これからどうするべきなんだろう」
声は意外に朗々と聞こえてくる。話している内容については、全く困ったように聞こえない言い方で、突っ込みどころに困る。というより、相手は俺を話し相手としているんだろうか?この暗闇だ。中にいる人間は同じ条件なら、自分の数歩前にいる相手だって区別できないはずなのだ。俺は音も立てていないし、動いてすらいない。となると、相手の馬鹿でかいひとり言だとしか思えない。
向かいの人間はカツカツと指を立てて壁を叩く。
「そこの、うずくまっている君。僕は君に聞いているんだけどね。どうやったら壁を壊せると思う?もしくは、どうやったらここから出られると思う?」
やっぱり俺だったらしい。無視するか答えるか迷っている間に、前の奴はまた喋り出した。
「まあね、抜けられないだろうと仮定するのは仕方がないことではある。僕もそれに関しては何ら否定はしない。何せ、僕達はどうしてここに来てしまったのか、何をやったのか、ここはどこなのか、全く分からない立場にいるんだろうからね」
ため息とともに断言する。俺はその反応を意外に思う。妙に余裕のある話し方とは違って、俺と全く同じ境遇だったからである。俺は咳払いをしてから、ぼそぼそと口を開けた。聞こえなくても構わない。
「お前も、よく分かんねえまま落とされたってわけ?」
「おや、ようやく口をきいてくれたね。声だけ聞く限りだと僕と同い年くらいかな?君、名前とかは覚えているかい?今落とされたって言ったけど、『落とされた』なんてことがよく分かるね」
「名前はともかく、落とされたのはお前も分かるだろ。ここは井戸の底なんだよ、そんな記憶がある」
「残念ながら、僕も全く同じ記憶だね。確かにここは井戸の底だ。もっと救いようがないことも分からないかい?僕達を落とした奴は、僕達をここから出す気がないってこととか」
全くその通りである。自分の名前さえ曖昧なのに、その二点だけはっきり覚えているのだ。
ひとつ、ここは井戸の底のような、脱出する方法が見付からない場所だということ。
二つ、俺と目の前の奴、二人を落とした人間はどうやら、俺達をここから出す気はないということ。
そんな、限りなくどうでもいいことだけ、やけに鮮明に記憶に残っているのだった。困ったものである。困ったついでに伸びをしてみる。腕を伸ばしても、そこから更に背筋を伸ばしても、向かいの壁にも天井にも届かない。
「困ったものだね。努力するだけ無駄ということをここまで実感させられた記憶はないよ。一体僕達は、これからどうやって過ごしていけばいいんだろうね?」
「さあ。もうやることがないんなら、大人しく死ぬのを待つしかないんじゃねえの。水責めなり、生き埋めなり、餓死なりな」
「ぞっとしないことを平気な口調で言うものだね君は。その神経の図太さを僕にも少し分けてくれよ。僕はこう見えても大分繊細でね」
平気な口調なのはお互い様である。あと全く誉められている気がしない。俺ははあと息を吐き出し、ごろんと横に転がった。何をするでもないし、何をしても仕方がないし、何もする気が起こらない。
それなのに、前の奴はまだ会話を続けるつもりらしい。
「うん。まあ呼びにくいしね、君も適当に名前を考えてくれよ。僕はエイということにでもしておこう」
「A?」
「そういうことだ。君はビィとかそんなんでいいかい?」
「どうして俺がお前の次なんだ」
「やれやれ、そんなことを問題にしてくれるなよ。今更順位にこだわっても何の意味もないだろう?それより考えなきゃいけないのは、僕達をここに入れた奴が何を考えているか、だ」
結局俺の名前については決めないということにしたらしい。エイは恐らく顎に手でも当てているのだろう、何やら思案しているみたいだった。
「君の意見には反対するけど、僕の考えとしてはこうだ。相手は僕達を殺す気はない。恐らく、何かの実験としてここに入れられている。二人なのもそのためだ。そしてきっと、その実験が終わったら出ることができるんだろう」
ベラベラとよく回る口である。さっきまで必死で壁を叩いていたのに、いつの間にそんなことを考えていたんだろう。俺も考えていたのかもしれないが、あいつのガツンガツンで全部吹っ飛んでしまった。というか、そこで初めて意識を取り戻したのだ。
「何でだよ、よく言えんなそんなこと」
「よく考えてみなよ、君、今空腹かい?」
「腹?いや、別に」
「じゃあ便意や尿意、頭痛など体の不調は?」
「それも、特には。でも別に今だけかもしれないだろ」
「いや、多分それも意図的なことだと思うんだ。僕はさっきから延々と壁を叩いてはいたけど、その間体調に変化はなかった。ということは、ここではそういう仕様なのさ」
「いつまでたっても腹が減らないと?」
そうだ、とエイはこれまた断言する。一体どこから来る自信に裏打ちされてそんな発言をするのか全く分からないほどの気持ちいい言い切りっぷりだ。
「更に、面白いことに、こんな暗闇の空間で退屈しないよう、わざわざ君という話し相手まで用意してくれている」
「お前はひとりでいても全く退屈しそうにないけどな」
「はっはっは、言うね。まあ確かにその通りではあるが。僕という存在は君のためにいるわけだよ。僕はひとり言も多いけど、君はひとりの時はどうやらひたすらに引きこもってしまう人間だろう?まあ都合がいいよね、いわゆる相槌役だ」
ふんふん、ともっともらしく相槌を繰り返すエイ。こいつの言うことに確実なことなんか何ひとつないんじゃないかと思える話しぶりだが、否定しても俺にいい気分なんかこれっぽっちも沸いてこない。黙っているくらいしかしたくなかった。
それともうひとつ。エイの言っていることを否定するのは簡単だ。けど、それを言うのは何となくはばかられる。でも言ってしまおう、ひとつの結論だけで決着がついてしまうというのも面白くないしな。
「……じゃあこういうのはありかよ」
「お、ビーの方から口を出すとは珍しいね」
「結局Bで決まりかよ。まあそんなことはどうでもいいか。俺かお前、どっちかが片方の妄想の存在っていうのは、ありかね」
「ありだね」
すぱっと断言する。もうこの断言っぷりはこいつの癖なんだろう。言い切らなくちゃ気が済まないのか。
「それなら話は簡単だよね。体調の不便がないのも当たり前だし、退屈を紛らわす相手としてもおあつらえ向きだろう。でもそれはあまり歓迎したい説じゃないんじゃないのかい?どうかな?」
その通りだった。俺が誰かの妄想の存在とか、ただでさえ触覚が危ういというのに足下までぐらぐらになってしまう。言いたくないというのはそういう理由からだった。
「そうだ。だからもうやめる」
「それが賢明だと僕も思うね」
「じゃあ俺はもう寝るから、ほっといてくれ」
「待った」
ちゃんとうまい方向に話を持っていったはずなのに、エイはそれを無視した。ひとり言が多いとか言っていたが、ただの話したがりなだけなんじゃないかとも思えてくる。いやいや目を開けると、闇の中でずりずりと何かが寄ってくるのが分かった。暗い中で動いているもの何であれ気持ち悪い。思わず起き上がって後ろにさがるが、悲しいかな、壁しかない。
「何だよ、気持ち悪いな、寄ってくんなよ」
「いやはや、実験のこととか考えていたんだよ。暗闇の中、健康的な若者が二人ですることといったらひとつしかないだろう?きっと僕達をここに落とした奴も、そんな実験を行いたかったんだと思うね」
「筋トレとか、そういうこともあるだろうが、てか、寄るな、気色悪い」
「気色悪いとは失礼だね。僕と君がうまく早くここから出られるための方法かもしれないんだよ。暇なんだろう?協力してくれ」
どうやら目の前でわらわらと手が動いているらしい。つい振り払うと、手首をがしっと掴まれた。やけに冷たい手である。俺の背筋までぞっとさせる。声が裏返りそうになるのを必死で我慢する。
「やめっ、やめろ馬鹿野郎!おれっ、俺は男とそういうことをするような趣味はねえっ!!」
「男?」
エイはそこで喋るのをやめた。ここぞとばかりに逃げようとする俺の腕を両手で掴み、ぐいっと自分の方に引き寄せた。ギョッとする間もなく、何か柔らかいものが、俺の手に触れる。触覚はおかしくなっているが、これは明らかに何だか理解できる。
「おまっちょっこれっ、むっ、むっ、むっ」
「君がどんな趣味を持っているのかは知らないが、残念ながら、僕は女だよ。がっかりしたかな?」
掴まれた手がどうにも小さいと思ったらそのせいか!こ、こいつに恥じらいというものはないんだろうか、惜しげもなく胸を触らせるとは!
俺は必死で呻いてどうにか手を振り払う。が、逃げ場所がないことには変わらないので、あっという間に押さえ込まれてしまう。感覚で、エイの体格はそこまで大きくないと分かるが、上に乗られてしまっているので満足に動けない。
「やめろ!お前、おかしいってんだよ!どうして初対面の他人とそういう行為に及ぼうとするんだ!」
「正確に言えば、初対面ですらないね。この暗さだから」
「じゃあますますだろうが!どけ!他の方法考えろ!」
「もう十分考えたさ。他に方法がないからやってるんだ。前も言っただろう?僕は繊細なんだってね。早くここから出たいんだ。協力してくれるだろう?」
何という身勝手な言い分。このまま飲まれてしまってもいいんじゃないかと思える強制だが、そう安々と雰囲気に巻き込まれてしまうのはどうにも情けない。名前も性格もうまく思い出せないけど、そんな理不尽に流されてしまう理由もない。俺はここぞとばかりに手を振り乱して暴れる。ガツンガツンと手が壁に当たるが、幸いなことに痛覚まで痺れているらしく、あまり痛みを感じなかった。
「他の協力ならしてやるが、その要求だけは飲まねえ!てか飲みたくないからどけ!」
「これが最善なんだよ、暴れないでくれ。女性を殴るような真似をするのは情けないよ」
「じゃあどうしろっつうんだよ!!」
「だから大人しく、僕とせ」
「断固拒否する!」
離せ!と何回目かの叫び声と一緒に、俺は壁に思いっ切り手をぶつけてしまう。勢いが強すぎたのか久しぶりの痛みを感じ、思わず身を竦めた。それと同時に、
ぽち、
とかいう今までとは全く別の音が聞こえた。俺もエイも二人揃って行動を止める。エイが「これは」と呆けたような声を出したのをいいことに、俺は後ろに抜け出す。え、後ろ?
「う、後ろが、ある」
「ああ、壁が抜けているね」
さっきのぽち、というそのままな音は、どうやら壁のどこかを崩れさせるスイッチだったらしい。壁の向こう側には光源もあるらしく、かなり朧げにではあるが、全体も見渡せた。俺が逃げたところは通路になっていて、大人ひとりが楽に通れるくらいの高さがある。
俺ははっと気付いて自分の体を見下ろす。さっきエイが自分のことを女だと表現していたが、俺だってよく分かっていない。もしかしたら女かもしれない。何せ記憶があいまいなのだ。
「う、あ、ほっとしたわ……」
「自分の体のことかい?全く、君は単純なのか繊細なのか、中々判断に迷う性格をしているね」
足下から誰かの足が見える。誰かというか、この状況下ではエイしかいないのだが、俺はようやく光の当たった場所で、奴の全体を見て、今度こそ開いた口が塞がらなくなった。
「そうか、確かに君が寝ているところの壁はいじれなかったからね、盲点といえば盲点だったよ。これで実験説というのはなくなったと思えるけど、つまりこれは相手側が僕達を殺そうと思っている可能性が強くなったわけで……」
「お前、が、ががががが」
「どうした?舌でも噛んだのかい?」
「ガキじゃねえかあああああ!!!!!」
心外だな、とエイは首を傾げた。その動作すら、既によく出来た人形のようだった。身長は俺の半分程度しかなく、着ている服はどこの令嬢かというようなひらひらのものだし、髪は背中を越すほどある。顔の造作も整っていて、まるで悪い夢のようだった。というか、夢であって欲しい。
「確かに年齢はこどもといわれる年ではあるな。しかし大声で叫ぶほどのことでもないだろう?ほら、このくらいの年齢のこどもは、男も女も『僕』といったりするじゃないか。それと同じさ」
「お前くらいの年のこどもは自分から迫ったりしねえ!!危なく流されるところだったじゃねえか!!」
「ふむ。少女趣味、いや、幼児趣味というのかな?大丈夫だ、世の中にはあまねく多くの趣味趣向がある。君がどんな趣味を持っていようが、僕はそれに対して寛大な心で接するさ」
「そんな趣味は持ってねえっ!!」
叫んだところで、体中に痛みが走った。どうやら井戸の底から抜けた時に、感覚の麻痺は消えてしまったらしい。俺が拳の痛みに耐えている間に、エイはつかつかと歩き寄り、さっとこちらに手を伸ばした。
「さて、では行くか。ビーさん」
「ど、どこに。つうか何でお前と」
「それを今更聞くかね?いいかい、僕達は何の意味もなくここに落とされ、しかも記憶までなくしてしまったんだぞ。お互い助け合って、こんな目に遭わせた奴に一撃でもくれてやる、というのが普通の考えだろう。この通路も見付かったことだし、やることがないなら僕に付き合うのも一興だろう」
「だ、ま、でも」
「でもも待てもないぞ。安心したまえ、僕は腕っぷしには自信がある方だ。君を守ってやるさ」
「そりゃこっちの台詞だ!」
言い返したついでに思わずエイの手を取ってしまって、俺はぐいっと引っ張り上げられた。腕に自信というのは本当らしく、俺は久々に立ち上がることになる。見れば、エイはまだまだ、本当に、ただのか弱い少女だった。一体どうなっているんだ。
エイはにやり、と、人形みたいな顔に似合わない笑みを浮かべた。
「よし、では行くか。気が乗らないが、冒険の始まりというわけだ。これは楽しみだな!」
「言ってることが矛盾してんだよ!」
2009:05:20