いや、弾いてない。そもそも鍵盤の蓋もどこも開いていなかった。そいつ、服装からして男子生徒は、わざわざピアノの椅子に座り、何やら読書に励んでいた。僕は何故かそいつから目が離せない。理由は簡単で、そいつの髪の毛は真っ白なのである。色を抜いたからなった薄さではなく、白髪が全体に生えているような、顔さえ見えなかったら老人の頭だった。
不意に、そいつは席を立った。鞄を持って、真っ直ぐこちらに向かってくる。僕はギョッとしたが、隠れるも何も、その場所も時間もなくて、
「う、わっ…………」
「………………」
がらり、とドアが開くと、出てきた生徒とばっちり顔を合わせてしまった。僕は腰を浮かせたが、相手は特に何も言うことはなく、興味が薄そうな目を細めたあと、さっさと歩いていってしまった。
気が抜けて、僕はほっと息をつく。さすがに、すぐに僕も出ていく気にはなれない。まるであとを追いかけているようで、気が乗らない。かといって音楽室の中を覗こうという気にも、勿論ならない。自転車で使った足が今更疲れたのか、床にへたり込みそうになっていた。どうにか踏ん張って、さっきの生徒がいないことを確認して、廊下に出る。
「あ、君、上にいたのか。探しそうになっちゃった」
二階まで降りたところで、上ってくるマカと鉢合わせた。僕は意図せず、安堵のため息をついてしまう。
「どうだった?ちゃんと見て回れた?今からもっかい案内しようか」
「いいよ……新学期になってきちんとここの生徒になってからにするよ」
「そう?ならもう帰るけど。まあもう道は覚えたか、それならひとりでも行けるし、大丈夫だね!」
何が大丈夫なんだか分からないが、マカは盛大に頷いた。それから、思い出したように問いかける。
「そうだ、誰かと会った?何人かいたけど、何奴ー!とかって怒鳴られたり殴られたりした?」
「されるわけないだろ……何か、頭真っ白の人なら見たけど」
「ソウルかー、じゃあ、呼ぶ?」
僕は意味が取れずに、危うく階段から足を踏み違えそうになってしまう。どうにか体勢を立て直し、上履きを元の場所に入れた。何事もなく不法侵入が終わったようで、やけに長いため息をついてしまう。
「一回会ってんなら話が早いよね!いいでしょ?」
「え、いや、何が?何がいいの?何か始まんの?」
マカは自転車の鍵をチャリチャリと指で回して、けろっとした顔で言った。
「え、言わなかったっけ?引っ越してきた新しい住人の歓迎会でもしようかなって」
全く聞いていませんが。















帰りはマカがこいだ。体力が違うのか、行きより妙に早く感じた。坂ではさすがに降りたものの、下手をすれば僕を乗せたまま上がっていく勢いだったくらいだ。どんな鍛え方をしているのか、知りたいような、知りたくないような。
「君は家の掃除でもしてなよ。準備できたら教えるからさ」
マカは別れ際そんなことを言った。恐るべきはその行動力である。強すぎて、その行為が正しいのか正しくないのか分からない内に従わされてしまう。頭の回る人みたいだから、あまり間違った行動というものは取らないのだろうけど、たとえ間違っていても最後までずんずん突き進んでいくのだろう。まあ、頼りにはなるけど傍観しているには怖い子だという感じだろうか。そして僕にとっての問題は、その行動力に完璧に巻き込まれてしまっているところである。気付かない間に物事がどんどん進んで、ひとり知らないところに置き去りにされているような、そんな錯覚さえしてしまう。
首を振って頭をすっきりさせた。いや、しない。暑さが引かないのだ。部屋の中に光はあまり射さないが、熱がこもっているのか空気が重い。一階はどこに行っても段ボールの山だ。くらくらしながら二階に昇る。そこも大して変わらないけど、窓に向かって一直線に荷物が取り除かれていて、道が出来ているようだった。奥の部屋に進み、窓を開けて、風を入れる。ついでに、外を眺めた。
「うわあ……」
眼鏡が落ちそうになったので慌てて押さえる。二階からの景色は、そういえばここが坂の頂上付近なのだということを思い出させるような、そんな光景だった。段々に並んでいる、どことなく古びた家と、坂から繋がる田んぼ、更に先には線路が伸びていて、その向こうにも田んぼが広がっている。駅前の喧騒などとはまるで無縁な、静かすぎる住宅街。
三十秒とかからず飽きるだろうその光景を、僕は口を開けて眺めていた。いつの間にか汗が引いている。髪の毛をさらさらとした風が撫でている。田んぼの向こうが赤くなって、暑い午後が終わろうとしている。それでも暑さは全然収まらなくて、僕は今日もうなされて眠るんだろう。涼しいのはほんの一瞬だけなのだ。放心していた頭をどうにか現実に引き戻し、窓の下にずるずるともたれかかる。
「掃除、全然、してないや」
掃除をすればいいとか提案したのはマカだが、何もせずにぼうっとして過ごしたのは僕である。今地震が来たらかなりまずいだろうが、だるくて仕方がないので段ボールの隙間に寝転がった。不思議な気分がする。自分の家だけど、そうじゃないような、全然違う場所で無防備に横たわっているような、そんな気持ちだ。あまりぞっとしない。上半身だけを起こす。汗はたれないまでも、じっとりと体中が濡れているような気分がする。
ぴん、ぽーん。
随分間延びしたチャイムが聞こえた。多分マカだろう。僕はやれやれと首を振って、一階に降りた。















再び案内された地区会館の一階は、昨日と違って真っ暗だった。それでいて真ん中でロウソクがゆらゆら揺れていて、中央の部分だけ浮き上がって見える。ロウソクを囲むようにお菓子やらジュースやらご飯やらが置かれていて、更にその外側に人がぽつぽつと座っていた。僕はその光景を見た瞬間に萎縮してしまう。ここは、何だ?僕の身に何が起ころうとしているんだ?
「君の引っ越し祝いなんだから君が入らないと意味がないよ。とっとと座った座った」
空気を読まないんだか強引なんだか分からないマカが、僕の腕をぐいっと引っ張る。僕はもつれそうになる足を何とか踏みとどめ、マカに聞く。
「な、何、これ。何の儀式?」
「失礼な!歓迎会って言ってるじゃん!この近所の子達呼んだんだよ、新学期に同じ学校だと思うし、いい機会じゃん!」
「こんだけ暗いと顔も何も分かんないってば……」
僕の意見はまるで無視され、さっさと中央に座らされてしまう。仕方なしに座り直していると、横から白いものがぼうっと浮かび上がって、僕は思わず体を震わせた。
「…………ああ、引っ越しって、お前か」
その白いのはぼそぼそ呟く。よく見れば、昼間に音楽室で会った白髪の生徒だった。こ、こいつも近所なのか。あまり夜には会いたくないな。
「ソウルとは会ったんでしょ?何キョドってんの?」
「あ、いや、別に」
「君がだー!」
目の前から名前を呼ばれてギョッとする。肩上の髪を揺らして、暗い中で太陽みたいに微笑む女子。僕は返事ができない。
「マカから聞いたよー、引っ越してきたんだよね!私ねえ、そこの隣の隣曲がったとこでお姉ちゃんと住んでるから、あとで遊びに来なよ!」
こくこく頷くしかできない。元気なのはその子とマカくらいのもので、残りの人物は影のように黙りこくったままだった。隣の白髪の奴も、黙々とスプーンを動かしているだけだ。黙ったままなのも、妙に、怖いんだが。雰囲気がありすぎる。
マカはさて、と言い直して咳払いをした。
「じゃあ今から、君の歓迎会兼、夏休み最後の大怪談大会を始めます!拍手!」
わああ、と歓声を上げているのはさっきの元気な子くらいで、あとは無言で拍手をした。僕は口を開けて固まった。予想通りすぎて反応ができない。確かに、辺りを暗くして、ロウソクで、丸くなってって、雰囲気作りにはもってこいだけど、本当に実践する馬鹿がいるとは思わなかった。いや、マカはもしかしたら天才かもしれないけど、色んな意味で。
「ひとり一話ずつ怖い話ね!なかったら面白い話でもいいよ〜。なるべく自分が体験した話!なかったら人から聞いた話でもいいけど、前の人とかぶるのはつまんないからなし!君はゲストだから一番最後に回します」
「な、何で俺が最後なんだよ!普通最初だろ!」
マカはぽかん、とした顔でこちらを見る。
「だって、最後の方がいいじゃん。色々思い出すかもしれないよ?」
「プレッシャーが増えるだけだよ!」
「まあまあ。じゃあ、どっちからやろっか。ソウルと私でじゃんけんして、負けた方からくるっと回って、最後が君になる感じで!」
やっぱり人の話を聞いていない。マカとソウル、と呼ばれた白髪は僕を挟んで勝負して、マカが負けて怪談大会が始まってしまった。全然歓迎会になっていない。僕はラストを飾らなければという緊張のせいで、既に飲み食いができなくなっている。この話下手の人間に一体何をしろというのだ。
「じゃあ私からか。この前ね、学校近くの変電所にさ……」
などとマカが話し始める。息でロウソクの火がゆらゆら揺れて、奥の人物の顔が歪む。大して興味のなさそうな眼鏡が二人、無表情でコップを傾けているけど、その口が曲がって笑っているように見えた。マカの話は全然聞こえてこないのに、奥の人物や、その奥の壁に、何か映っているような気がして、変にぞくぞくしてしまう。納涼効果ならばっちりだ。ここの立地が悪いんだろうか、風の通り抜け方がおかしい気がする。駄目だ駄目だ駄目だ気にしすぎる。そこまで神経質だというわけでもないのに、どうして今日に限ってこんなにビクビクしているんだろう。知らない人に囲まれているからだろうか?















「……それで、その黒マントの死神が言うんだよ。『お前を頂く』とか何とかな。怖いから当然走って逃げるんだけどさ、死神だから体力とかも半端じゃない。あっという間に追い付かれて、しかも袋小路に追い込まれるわけ。もう駄目だどうしようもない、て時に後ろから声がするんだ。『助けてやるぞ』って。ほっとして振り向くとさ、そこにはさっきの死神をずっとボロッボロにした死神がいて、お面とかかぶって笑いながら、俺に鎌を振り降ろすんだ。死ねば助かるってね」
ソウルの話し口調はやけに淡々としていて、そっけない喋り方をしているのにも関わらず妙に恐怖をかき立てる。皆静かに聞いていた。誰も物音を立てない。
「……とまあ、そんな夢を、昨日見たな。おしまい」
「ちょ、また夢オチ?その辺の三人夢オチばっかりじゃないのよ、どうにかしてよ」
「怖い話ではあるだろ。起きた時冷や汗もんだったわ」
ロウソクがまた吹き消されて、残るのは僕の前にある一本だけになった。大分燃えてしまっていて、話をする間持つのかと思う。
マカはさて、と言いながら座り直した。
「これで最後は君だけだね。期待してるからよろしく!」
「期待してるぞー!」
今までの怪談はどこへやら、明るい雰囲気で女子の声が聞こえる。僕は嫌だ嫌だという気分と、緊張を押し殺しながら、げほんと咳払いをする。
「えっと、じゃあ、俺が小さい時、五歳くらいかな、そん時の話なんだけど、」



ぎいぃいっ。



突然。
僕の話を遮る丁度いいタイミングで、今まですることのなかった音がした。
当たり前だが会話が止まり、声が止まり、呼吸が止まる。「あ、」とでも声を上げれば、この世のものではないような何か、そんなものがこの部屋に入ってきそうな気がするのだ。



ぎいぃいいいっ。



もう一回、音だ。さっきより大きい。声を立てないように、とか、身動きしない、とかもう無理だ。音は玄関の方じゃない、奥の方、僕の正面の、窓の、鍵の開いた窓の、カーテンが揺れて、いつの間にか、ざわざわと波打っていて、



だんっ!!



横で強烈な音がした。何かと思えば、マカがいつの間にか立ち上がって、前の方へ歩いている。呆然として動けない僕達を尻目に、カーテンを思い切り引いて、
「……何だ、ブレアか」
と、ほっとした声を出した。にゃあにゃあと猫が鳴く声。
「な、ね、猫ですか。マカさん、それは君の飼い猫で?」
「何だよお、まじでびびったよ!猫かあ、どれどれ」
「そういえば、さっきからカリカリひっかいてたような気もしたね、猫か」
各々勝手な感想を言い合っている。僕もほっとして息をついた。何かまずいものでも呼んだのかと思ったが、そうでもないらしい。あの猫が悪いものではないとは言い切れないが(猫は死神の使いとかって言うし、)、恐ろしい何かそのものがやってこなくてよかった。
今のため息で、僕の前のロウソクが消えてしまった。でも皆暗闇に慣れたようで特に不便も感じていないらしい。今となっては何を話すつもりでいたのかも忘れてしまった。とりあえず、怪談が終わったならよいことには違いない、多分。





2009:05:03