お礼を言ったことを僕はすぐ後悔することになって、夜中はそれでうなされた。理由は単純で、マカと二人乗りしたからである。
「道は一本で簡単だからすぐ覚えるよ!明日は学校にも連れてったげるよ」
などとニコニコ笑いながら、自転車の後ろを叩く。二人乗りする上に、女子にこがせるなんて、僕は何だか情けない人間に見えそうで嫌だったが、場所も分からないし乗り物もないしなので仕方がない。大人しく乗せてもらい、とりあえず荷台を掴む。
こぎ出す直前、マカはこちらを振り返って言った。
「気持ちいいよここ!」
「へ?気持ち」
僕が最後まで言い切る前に、マカはペダルに足をかけた。ぐん、と踏み込む。ここは坂の上だから、それだけで思いっ切り前のめりで進むわけで、
「ぐっぎゃっぎゃっぎゃああああああ!!!!!!!落ちる落ちる落ちる!!!!」
とかって、僕は悲鳴を上げることになった。マカはけらけら笑うだけで、あろうことかブレーキをかけるそぶりすら見せない。自転車は坂道をそれこそ転がるように下っていき、僕は曲がり角を見る度に必死で声を枯らしたが、最後までその願いは聞き届けられることはなく、
ギキキッ。
とかいう恐ろしい音を立てて、自転車は田んぼに突っ込む一センチ手前でようやく止まった。僕は息をぜえぜえ切らして、荷台から降りる。マカは興奮覚めやらぬ様子で、ハンドルを握ったままゲラゲラ笑っていた。
「あはははは!!何だ君馬鹿じゃないの!落ちないってこのくらいじゃ!」
「落ちるわ!俺じゃなくても落ちるって思うってんだよ!」
「私の友達は他の坂で、走ってる車追い越したって言ってたけどなー」
「その友達がおかしいんだよ!俺はこんなところで死にたくない!」
「私がハンドル操作間違えるように見えるかね!あはは!」
マカはひとしきり笑ったあと、君テンション高いなあ、と呟いた。言われて初めて、自分が怒鳴っていたことに気付く。いや、これは仕方がないだろう。曲がり角で塀に激突して死ぬか、止まり切れず田んぼに突っ込んで死ぬかの二択だったんだぞ?興奮しない方がおかしい。
マカは前髪などを優雅に直しつつ、再びサドルにまたがって、こちらに手を伸ばした。
「よし、じゃ、次はスーパーまで行きますか!」
「誰が乗るかッ……て」
ごはあ、と息を吐きながら僕は目を覚ました。背中が痛い。ギチギチ鳴っている。朝のはずだけど、あまり光は差し込んでいない。ここはどこだ?
「どこだも何も、僕の家だよ……何ださっきの夢……」
僕は頭をかきつつ身を起こした。結局、玄関でそのまま寝ていたのだ。寝汗が凄いが、荷解きをする気にもなれなかったので、着替えがどこにあるかも分からない。
どうしてあんな夢を見たかって、マカとした二人乗りがいけないのである。残念ながらその二人乗り自体は実体験であり、そのフラッシュバックが夢にまで及んだらしい。マカは体重が軽いのか、前にいると物凄く重心が安定しない。普通に走っていても転びそうになるのだから、坂道の恐怖たるや凄まじいものだったことが分かるだろう。僕は犬みたいに身を震わせた。さ、寒い。やることもないし、荷解きでもしないといけない。
携帯を開くと、母さんからメールが入っていた。『隣の自治会長さんにお世話になりなさい』。自治会長って、ほんとにあれです、
ピンポーン!
か、と僕が言い切る前に、チャイムがやけに大きい音で鳴った。僕は反射的にヒッとかって悲鳴を上げてしまう。心臓に悪い、誰だこんな朝っぱらから!
ピンポンピンポンピンポン。
相手はこちらの迷惑も全くかえりみず、いつまでも鳴らしている。僕は頭をかきつつ、覗き穴から外を見て、ついでに絶句。鍵を開ける。
「おはよーう!学校行くって言ったっしょ!行こう!」
「………………」
マカだった。今日は猫は連れてはおらず、服装もワンピースではなく、どこぞの制服に見える服を着ている。僕は黙ったままドアを閉じようと思ったが、起きた時間の違いか、マカの行動の方が数倍早く、ドアの隙間に潜り込んでしまう。しかも妙に力が強くて、ドアを掴んだ手はがっちり閉まるのを防いでいた。
「な、何だよ、入ってくんなよ」
「君は前の制服ってブレザー?」
「ち、違うけど」
「じゃあズボンは黒いね!それ着てけば誰でもうちの生徒だよ!どの箱に入ってんの?さっさと探して行こうよ!」
「ま、待った待った待った!自分で探すからそこにいて下さい!」
中に入ってこようとするマカを必死で押しとどめ、僕はひとりでリビングに飛び込んだ。両親がきちんと分類するタイプであることを祈る。
これもまた幸いなことに、台所近くの段ボールに『・服』と書かれていた。二個目の『・服』の一番上に、前の学校の制服が入っている。
「くーん、着替えたかい?」
「うわあああっ!?な、何で見てんだよ!」
声に振り向くとマカがにやつきつつリビングを覗いていた。すぐに引っ込む。僕はなるべく段ボールに隠れつつ、ハイスピードで着替えた。『タオルとか』と書かれた段ボールからタオルを引っ掴み、顔を洗って玄関に駆け付ける。あれ、どうしてこんなに急いでんだ。
「あはは、君、頭ぼっさぼさだよ?」
マカは自分の頭をつつきつつ笑った。うっさいな、これだけ早く準備しただけでも誉めて欲しいものだ。
「笹山中はねー、学年三クラス、この辺りでは唯一の中学校です。先生も生徒ものんびりしてるなー。敷地は結構広いんじゃない?あ、まだまだ真っ直ぐね〜」
後ろでマカが喋っている。僕は昨日のスーパーとは逆の道、まあつまり延々と田んぼの中を、自転車で走り続けている。
今回こいでいるのは僕だ。昨日あんなに無茶な坂下りを見せられて、連続で前を任せる方がどうかしている。家を出る時から自転車は僕が押し、今も後ろから指示をもらっているところである。
「何か、もう、十分はこいでる気がするけど」
「貧弱だなあ。まだまだだよ。あそこ、突き当たりに建物あるでしょ?あそこ変電所なんだけどね、あそこ右に回って、そしたらすぐかな」
「突き当たりって……」
地平線の彼方にあるように見えるのだが、それは僕の眼鏡の度が合っていない、というわけじゃないだろう。実際に遠いのである。垂れてくる汗が目に入りそうになって、首を振る。頭がクラクラしてきた。
「マカ、さんは、いつもここから通ってんの?」
名字が分からないので名前を呼ぶ。マカはうーんと声を上げた。悩むことか?スカートだというのに足を広げて座っているせいか、風が通って気持ちよさそうである。
「そうだねー、普段はもっと人がいるんだけど、休みだからー」
「皆自転車なんだ」
「そうだね。だから君も早く手に入れた方がいいよ!自転車!」
「つってもなあ……」
「買って乗ってくればいいんだよ」
僕はあの坂を思い出してうんざりする。行きはいいかもしれないけど、帰りはきつい。そもそもどうしてあそこだけ斜面の上に住宅街があるのだ。全然ハッピーじゃない。
「うちの学校の人、体力ある人多いよ。違う学区から来る子もいるからね。山越えてくる子もいるし」
「や、山?」
「そう、山。ほら、そこを右でー、また左に行くと正門が見えるよ。今は先生いないと思うけどさ、二人乗り禁止だからそろそろ降りなきゃ」
そういうと、マカはほっと掛け声を上げて自転車の後方へ飛び降りた。速度は全く落としていないのに、大した運動神経である。いや、無謀なのか。
マカが降りたので、僕も自転車を押すことにする。確かに、変電所とやらを過ぎたらすぐだった。公立の中学校の、全国であまり変わらない外見が見えてくる。マカが心配していた教師はいないようだった。門も開いている。
「私本返してくるからさ、適当に中見てなよ」
「え、俺、部外者なんですけど」
「服着てるから平気だって!新学期から入るんでしょ?なら慣れといた方がいいじゃん!」
確かにその通りなのだが、転校のドキドキの一部を奪われるような気がするのは気のせいだろうか。マカはガラガラの駐輪場に自転車を停め、さっさと昇降口に入っていく。
「誰かの靴借りちゃいなよ。ないでしょ?上履きとか」
「ない」
「皆置き去りだからくさいかもしんないけどね!私は自分の使うけど」
言われるまま、僕はそこそこに大きい上履きを拝借する。上履きと言ってもそれはサンダルに近い形状のもので、確かに誰が履いても分からなさそうだった。
マカはさっさと手を振って、本当にひとりで図書室に行ってしまう。僕はぽつんと取り残された。不安と、緊張と、妙な焦りが僕を取り囲む。誰か生徒に見付かったらどうするんだ。それ以上に教師に見付かったらどうするつもりなんだろう。僕はいたたまれなくなって、辺りをキョロキョロ見回した。
教室と、中庭が見える。階段がある。左に曲がると恐らく職員室がありそうだ。教室側にも、あまり行きたくない。とすれば僕が選べる選択肢は、このままここで待つか、
「階段上がってみるか……」
とかいう、どうでもいい二択しかないのだった。僕はなるべく音を立てないように注意しつつ、階段を上がり始めた。
しかし、そんな冒険心も長くは続かなかった。そもそも三階までしかない上に、二階に人がいる気配がしたので、慌てて三階まで逃げてきたのである。クラスは少ないし、教室の前には長い廊下があって、別棟と繋がっているみたいだった。中庭を見下ろしつつ、そこを歩く。夏休みも終わりなのに、校舎には人の気配が薄い。昨日のハッピータウンのようである。人口自体がそもそも少ないのかもしれない。
突き当たりまで来る。見上げると、『音楽準備室』というプレートがある。音楽室か。やっぱり誰も練習していないらしい。開いている様子さえない。そこを更に左に曲がってみると、当たり前のようだが『音楽室』のご登場である。が、そこは今までの教室とは違っていた。
「開いてる……」
扉が数センチ開いているのだ。これは、中に誰かいるのかもしれない。僕は今まで音を立てずに歩いてきたっけ?いや、三階に来てからはそんなことは頭から飛んでいた。中にいるのが教師だったらどうしよう。何て言い訳をするか。マカを連れてくるしかない。
よせばいいのに、僕は窓から教室を覗いてしまう。室内は椅子が片付けられ、奥にぽつんとピアノが置いてあるだけで、そこに誰かが座っていた。ピアノでも、弾いているんだろうか?
2009:04:30