腹が痛いとマカはさっきからずっと繰り返している。俺はそれに対する策を既に何ひとつ持ち合わせていないので、大人しく(気持ち耳を塞ぎつつ)ソファーに寝転がっている。
マカにとって残酷なことに、ここは俺達が住んでいる部屋ではない。そもそもデスシティーが存在する大陸ですらない。そこから海を西側に越えたところにある大陸。ユーラシアの端である。
課外授業って本当に名前だけだ。俺は毎回軽い旅行気分でいる。勿論その気分がふち壊される時もあるわけだが、今回は割と好調だった。はずだった。それは戦闘時だけの思い込みにすぎなかったわけだが。
マカは部屋に戻った瞬間、ぐぐぐと腹を押さえて布団に倒れ込んだ。眉間にシワを寄せてうんうん唸っている。靴は脱ぐがコートは脱ごうとしない。俺は上着を椅子にかける。
一体どんな手違いがあったのか、泊まりがけの課外授業で、俺とマカは同室だった。それを最初に聞かされた時はビビったが、俺達以上に宿主の方が焦っていた。死武専は上客だ。こんな馬鹿みたいな手違いで、将来の客を逃す不利益は大きいだろう。俺は呆れた顔をしていたに違いないが、目を合わせたマカの方がもっと、何て馬鹿馬鹿しいというような、完全に冷めた目をしていた。思えばその頃から腹が痛かったのだろう。
「平気です。私達パートナーですから。間違いは起こりません」
結局、マカは冷淡とも言える口調でそう言い切って、間違いは隠蔽されることになった。宿側も、本人の口からそう聞いた限りは信じるしかないだろうし、死武専にわざわざ報告する気もないだろう。俺達は三階の端の部屋に案内されることになった。勿論ひとり部屋だが、ご丁寧にソファーが運び込まれていた。俺はこれを使えということなのだろう。
マカは荷物を置きつつ、相変わらずの冷めた口調で呟いた。
「不愉快だわ」
君子危うきに近寄らず。あれだけ機嫌の悪いマカに、俺は話しかける術を持っていない。
とはいいつつも、どこか痛むなら話は別である。常備薬で何とかなるなら何とかしないと、明日に響く。明日も魂を回収するという予定はあるのだから。
「平気かよ」
「平気に見える?」
「下痢か?何か変なもん食っただろ」
「…………」
マカは横向きに俺を睨みつつ、ぱくぱくと口を三回動かした。え、え、い。そう動いたように見える。
「セーリ」
俺の疑問を読んだのか、マカはわざわざ言い直した。俺もさすがに納得する。生理か、そういえば、マカは可哀想になるくらい痛がる人間だった。
腹に手を当てて背中を曲げつつ、マカはぶつぶつと恨み言を言う。
「何で生理なんかこの世の中にあんのよ……他の奴らも皆経験すればいいんだわ……血が出るんなら痛みなんかいらないのに……ちょーむかつく……」
「そりゃあどんまいだよ。俺にはもうそれしか言えねえよ。薬は?鞄のどこにあんの」
マカは赤い袋、と呟く。俺がマカの鞄をあさっている間にもずっと呻いている。ようやく薬を探し出して、水と一緒に渡す。この時に呟かれた言葉は、
「ソウルも経験しやがれ」
だった。マカの不機嫌に乾杯である。















それから痛い痛いは少し収まったが、その代わりに沈黙が訪れた。夜の喧噪もない、全くの静寂。恐ろしいくらいである。俺は薄い布団をかぶりながら、狭いソファーの上でまどろんでいたが、中々眠くならない。今日は長いこと武器のままだったから、すぐに眠くなってもおかしくないはずなのに。
夜に目がさえているのは面白い経験で、明かりのない室内がやけにはっきりと見えた。狭いから、目をぐるりと動かしただけで、すぐに部屋の全体が分かってしまう。視界の端でマカのいるベッドが動いているのが見えた。布団が丸く持ち上がっている。まだ痛いのだろう。痛いと言うから痛みを感じるんだろうに。
俺は布団をのけて、ごそごそ起き出すと、音を立ててベッドの横に向かう。丸いかけ布団はその間ずっと転がっている。手を伸ばして、上からめくる。
案の定というか当たり前というか、着替えてもいないマカがそこで悶えていた。
「着替えろよ、シワになんぞ。あとうっせえ」
「うっせえ。痛いんだから唸って当たり前でしょうが」
「他人の迷惑考えろ」
「じゃあお前が女の子になれよ、女子は毎月毎月いったいんだよ、死ぬんだよ、明日鎌握れるか分かんねえんだよ」
相当機嫌が悪いらしく、マカはぎろりと俺をねめつけると、上半身を起こした。
「……私時々考えるわ」
「何を」
「あんたが女の子だったらもっと優しくしてやるのに」
「俺も時々思うよ」
「何を」
「お前が男だったら容赦しねえのに」
お互いに黙り込む。こういう時先に喋り出すのは大体マカである。
「私今から随分はっきりしたことを言うわ。気分を悪くしないで」
「おう」
「……ソウル、パートナーじゃなかったら、あんたなんかと口きかない。友達すらなってない。知り合いでもない。他の人から紹介されても、喋ったりしなかったと思う」

俺は心臓がドクドクと音を立てて鳴っているのを感じる。血液が頭に昇らない。マカにそう言われて感じたのは怒りじゃない。多分、絶望だ。
すぐさま言い訳する。分かってる、俺はマカのことを「好きじゃない」。マカはそういう位置にはいない。この感情を例示するのはとても簡単だ。明日大きなライブをしようというバンドが、前日の夜になってギターに脱退宣言をされるようなものだ。何だよ、がっかりしたよ、明日からどうするんだよ、何で教えてくれないんだ。
俺はひくついた声を出していただろう。顔だって歪んでいるに違いない。
「……そりゃ、随分と酷い話で」
「怒んないで。嫌いじゃない。そういう意味じゃない」
「嫌いじゃないって言われてるようには、とてもじゃねえけど」
「違う。言い方を変えるわ。私。ソウルのことが苦手なのよ。というか、普遍的に、染色体が二種類ある人間が嫌いなのよ」
うおっ、すっげえこと聞いてしまいました。それは今マカが生理中だからとかそういう理由からじゃないだろう。俺はすぐさまあの親父を思い浮かべる。ニヤニヤ笑いのデスサイズ。マカの大嫌いで大好きな父親様。
マカはきちんと起き上がると。スカートとコートの端を直し、膝を抱えて前を見た。俺とは視線を合わさない。
「だから、友達になんてなれない。なれるはずがない。ソウルとパートナーになれて本当によかったと思ってるよ。でも、それとこれとは話が別。完全に別。分かる?」
「分かる分かる」
要するに、俺は武器であって人間じゃねえってことなんだろう。人間じゃないから、深夜にこうやって近付いてきても何の不審感もない、警戒心もない。そりゃあ俺だって何もする気はない。マカが理解しているかは知らないが、武器にとって職人は自分とは違う生命体である。俺達は「お互いに人間じゃない」のだ。何の間違いがあろう。
不愉快だわ。マカの言葉がよみがえる。そりゃあ不愉快だろうさ。人間外のよく分からない生き物と一緒の部屋にされ、更には「起こりうる事態」なんぞを想像されてしまったんだからな。俺は冷めたものだったが、マカは凍るような表情だった。吐き気でもこらえていたのかい?
ふん、俺は鼻を鳴らす。じゃあ俺の目の前で膝を抱えるこいつは一体何なんだ?何もんなんだ?人間じゃないことは分かってる。宇宙人か?マカも鼻を鳴らす。
「だから、ソウルが男じゃなきゃよかったって言ってんのよ」
そうじゃなかったら人間として扱ってやるのに。
裏に潜む声が聞こえたような気がして、俺は鼻で笑ってやった。
「俺はお前が女でよかったと思うよ」
「何で?生理で苦しんでるのを見るのは楽しい?」
「違う違う」
男だったら、明日の朝魂を狩るなんて真似はできない。我慢ができない。俺が腕でも何でも折ってやるからだ。切ってやってもいい。武器の強度に職人は敵わない。
マカはふん、と言って話を断ち切った。俺の考えを読むなんて朝飯前なのだろう。俺はさっぱり読めないが。
「ソウル、明日は魔女狩りで仕留めましょう」
「魔女狩り?」
俺は思いっ切り口を歪めた。マカの考えはさっぱり読めない。
「お前な、明日俺を持てるかどうかの心配しろよ」
「何で?そんな心配いらないし。ソウル、分かった?明日は魔女狩り。それ以外認めない」
勿論失敗も認めない。マカは繰り返して強調する。俺は頷くしかない。こんな場所で言い合っても仕方がない。声を出さずに態度で示し、肩をすくめて終わらせる。もう十分だ、満足したろう?陰口の言い合いは気持ちよかったかい。
マカは腹を撫でつつ囁いた。
「お腹痛いの、どっかいっちゃった」
それは何を言いたいのかな、職人様。















俺の不安は杞憂だった。俺達は馬鹿みたいに気持ちよく魔女狩りを放ってしまった。全開とまではいかないけど、いつかの墓場での失敗に比べたら月とスッポンだ。マカは楽しそうな顔で鎌の刃に額をぶつけた。がいん、と鈍い音がする。
「どうだい、できるもんでしょ」
「……さっすがマカ、ベリィクール」
「もっと誉めていいよ」
ニヤニヤ笑うマカの表情からは、昨日のいざこざも生理の辛さも伝わってこない。マカはすぐ表情に出るから、本当に何にも考えていないんだろう。俺は感嘆するしかない。
ほんと、職人の脳内ってどうなってんだ。















どうにかなってんのは死武専の方だったらしい。課外授業から帰ってきた俺達をまず迎えたのは、とんでもなく機嫌が悪いデスサイズだった。父親に会ったことで、マカのテンションは一気にマイナスに変化する。マイナスに挟まれた俺がプラスになるかといえばそうではなく、とにかく面倒が起こらないようゼロでいるしかない。
厄介なことに、デスサイズの関心は娘にはないようだった。
「おいソウル、死神様がお呼びだ。ちょっと来い」
「は、はあ?何で俺なんだよ、何もやってねえだろ」
「いいから来い。マカは保健室に行きなさい。先生方が話があるそうだ」
デスサイズは簡潔に用件だけを言うと、くるりと身を翻した。死神様のところへ行くらしい。俺はマカに目を合わせる。
人間外である職人はひたすらに冷めた目をして、父親の背中を睨み、俺を睨み、反対方向に歩いていった。言い訳も何もしないところは実にマカらしいが、そこでどうして俺を睨む。俺に原因があると思ってるのか。こちらにも全く覚えはないというのに。
俺は頭をかくと、仕方なくデスサイズのあとを追った。無視したら面倒そうな気配がしたのだ。ちなみにこういうのを何と言うのかは知らないが、実によく当たるのだ。
「ややっ、ソウル君よく来たね〜。どうよ?最近の調子は?」
デスルームに着くと、中には死神様、シュタイン博士、デスサイズなど、様々な面子が揃っていた。俺は少し萎縮する。何だこれ、俺は今から拷問でもされるのか。
死神様は相変わらずの軽いノリだった。俺がはあとか適当に答えると、指をばちばち鳴らしながら揺れ踊る。
「調子がよいのはいいことだよ〜。私も最近ね、腰に効く運動を教えてもらってねえ。これがまた効くんだ」
「死神様いつまで世間話をされるつもりです!俺がはっきり言っていいですか!」
そののんびりに耐えられなくなったのか、デスサイズが叫んだ。死神様は頭をかきつつ、でもねえとかって言い淀む。話が見えない俺に救い船を出したのは、珍しいことに博士だった。頭のネジをいじりながら、退屈そうに欠伸をする。
「じゃあ俺から説明しますよ。ソウル、率直に聞きますが、君はパートナーである職人に、何かいかがわしい行為を働きましたか?」









………………はあ?









俺がぽかんと口を開けていると、死神様が慌てたように博士の後ろにすり寄った。
「ちょっとちょっとシュタイン君〜、それはいくらなんでも直裁的にすぎるよ、もうちょっとオブラートに包んだ言い方をしないとスピリット君が泣いちゃう」
「はあ……と言われましても……時間の無駄ですから」
博士に応えた様子はまるでない。馬鹿みたいに目を丸くして、人形のように固まっている俺に対して再び声をかける。
「ええっとですね、君達が先週から昨日にかけて行っていた課外授業。泊まりがけだったわけですが、どうやらその宿は男女同室になってしまっていたらしいんですね。そのような報告が一応俺のところに来ました。俺自身はどうでもいいんですが、死武専の教えは『健全なる魂は健全なる精神と肉体に宿る』ですので、こうやってソウルから事情を聞いているわけです。さて、どうでしょう、何か言いたいことはありますか?」
「言いたいことって……」
まるで確信犯扱いである。どう言ったらそれが誤解であることを伝えられるんだろう。全く想像ができない。
デスサイズは博士を押し退けて、俺の襟を掴んで揺らした。がくがくがく。俺は震える、デスサイズも揺れている。
「ちくしょー!てめえマカに何もしねえって言ったじゃねえか!その約束を破るってのか!俺はなあ!俺はなあ!マカのことが心配で心配でもうどうしようかと」
「と、こんな具合に先輩がうるさいので、わざわざこんな会議を開いたってわけです」
博士が俺とデスサイズの間に分け入り、暴れる父親を引きはがした。俺はなされるがままで、あまり博士の言葉は頭に入っていなかった。
ああ、今ならマカの気持ちが分かる。不愉快だ。何もない、起こりえない関係を、わざわざ邪推されるのは本当に腹が立つ。
死神様はゆらゆら揺れながら、まるでついでのことのように問いかけた。
「さてまー、こんなことを聞くのは非常に申し訳ないんだけど、スピリット君のためだと思って答えてやってよ」
「……えっと、どう答えればいいっすか」
「イエスかノーでいいんじゃない?」
「……なら、ノーです。何もありません。マカに聞いてもそうだと思います」
「あらそ?なら、これで解決だねえ」
死神様はあっけらかんと言い切り、ぽんぽんと手を打った。既にみっともなく泣き出しているデスサイズに声をかける。
「スピリット君!聞いたでしょ?何もないってば!今後はこんなことやめにしようねえ」
「うおおおおおお!!マカあああああああああ」
うるさい武器に死神様は特大のチョップを食らわせた。あれは食らいたくない。
いつの間にかデスサイズから離れていた博士は、へらへら笑いながら煙草を吸っていた。眼鏡の奥のよく見えない目が、じっと俺を見ているのが分かる。
「……何すか」
「魂はまるで動揺していない。ほんとみたいだね。ま、ソウルの言うことに嘘はないですからね。実行できるかは別ですけど」
「……何が言いたいのかよく分かんねえ」
「俺が言いたいことなんてひとつもないよ」
へらへら。博士の授業はいつも謎々みたいな感じだ。















デスルームから解放されて、ぶらぶらと教室への道を辿っていると、前方からぷりぷり怒った職人様がやってきた。駄目だ、あれは完全に怒っている、怒り狂っている、導火線に火が点いている。俺にできることはその火に触らないように逃げ回ることくらいだが、マカは俺を見付けた途端にギリッと眉を寄せたから、もうそれすら無理だろう。
T字廊下の突き当たりで丁度向かい合う。マカは待っていましたとばかりに唾を飛ばした。
「不愉快だわっ!」
「唾を飛ばすな」
「何が、『ソウル君に何かされなかったかしら』よ!されるかっつうの!するかっつうの!当日の部屋をずっと見せてやりたいくらいよ!あれで男女のイカガワシイコトが起こったらそれこそ奇跡よ!死人先生がよみがえるっての!」
キィイイイイ、とマカは口を噛み締める。俺は一歩後ろでその暴言を聞いていたのだが、こちらが聞かれたこととまるで同じなその状況に一瞬安堵し、ついで肩をすくめた。死武専も実に面倒な真似をするものである。
「そっちも同じこと聞かれたのかよ」
「ソウルもこれ聞かれたの?」
「確かに部屋の様子見せてやりてえわ」
「今度からビデオでも持っていこうか」
二人揃って下卑た笑みを浮かべた。夜中にベッド際で、互いを人間じゃないと糾弾する俺とマカ。デスサイズが見たら卒倒するんじゃないだろうか。
それにしても、どうして分かってくれないのか。間違いを防ぎたいなら今すぐ俺達の、というか武器と職人の住居を別々にしてもらいたい。男女で分かれた寮でも作ればいいのである。そうしない限り、出先で同室になっただけで文句を言われる筋合いなんてひとつもない。実際に、俺達は一回もそんなことはしないし、しようとしたことも、そんな気分になったこともない。
マカは苛々とネクタイを緩めたり整えたりしている。俺は窓の外を眺める。日はまだ上がり切っていない。朝っぱらから不快な目に遭ったものだ。午後から授業なんてやる気が起こらない。
「二限も出られないかも……今日の魂学の先生好きなのに……」
「博士だっけ?」
「博士は明日でしょうが」
「俺いっつもいねえからなあ」
「自慢げに言うこと?」
「赤点は取ってねえからいいだろうが」
「デスサイズを目指す武器が赤点なんて!」
マカは大袈裟に嘆いてみせる。耳にタコだ。別にこんなやり取り、なくしたっていいようなものだけど、マカの気分を戻すための儀式みたいなものだ。本人だって分かっているだろう。俺ができない魂感知ができるんだから、そのくらい簡単に分かるはずだ。機嫌取りくらい誰でもやることだろうさ。
昼食はどうするのかと考えて、いつもの面子を探していた時に、丁度授業が終わったらしい教室から、人が溢れるように出てきた。
「早く行かねえと食堂埋まるかね」
「そうだろうね……」
マカはきょろきょろと前を見回している。その前を、女子の団体が通った。マカの知り合いらしく、高い声で挨拶していた。俺はこういう、知り合いの友人とは、どう距離を取ったらいいかよく分からない。自然と離れる。マカはさっきまでの極端な不機嫌が治まり、穏やかな笑みを浮かべていた。マカの顔面の筋肉は柔らかいなあ、と思う。
ずっと見ているのも気持ち悪いので、壁を伝うようにして人混みから離れる。さて、この調子なら、昼食は別に摂ることになるかもしれない。俺だけでもいつもの面子を探しておくべきなのかもしれないが、そもそもこの教室自体、三日月クラスの前に位置している。俺は寂しい食事時を想像して、仕方なしに何を食べるかまで考えた。あまり食欲がないせいで、何を思ってもうまそうに見えない。









バンッ!









人混みから、何か破裂音のようなものが聞こえたのはその時だった。俺はもたれていた壁から背中を離し、何事かと音の方を見やる。
どういう偶然か、俺の視界は開けていた。いや、音を出した人間を中心にして、人波が割れていた。中心人物は、あろうことか、マカだった。
マカはいつも持っている分厚い本を床に叩き付けたらしい。肩をいからせて、口を開く。



「だから違うって言ってるじゃないッ!!」



声は静まり返った廊下の奥まで響き渡った。ついでに俺の脳みそに直撃した。この中で、マカの言っていることを本当に理解しているやつは、贔屓目なしに俺だけに違いなかった。あの優等生が友人に怒鳴りつけたのである。明日は槍でも降るかもしれない。
マカの友人らしき女子達は、当たり前だが凍り付いていた。当事者だけでなく、周囲の人間まで全員固まっていた。動けたのはマカだけだった。
マカは本を拾うと、凍った友人にぼそぼそ何かを呟いた。よく聞こえなかったが、すぐに彼女達が首を振りながら謝っている様子が見えたから、きっと自分の暴走について謝罪したのだろう。凍り付いた時間がようやく動き出し、廊下はいつもの喧騒を取り戻す。
人が流れるその直前にマカと目が合った。あいつは何か言いたい顔をしていた。まあ、とりあえず、今日の昼食は個別になること間違いなしだろう。マカは本を抱えたまま、廊下の向こうへ流れていった。
マカが場からいなくなった途端、友人らしき女子達が俺の前に移動した。やたらとごめんを繰り返されて、俺はうんざりした気分になる。何か勘違いしている。あんたらは何も謝ることなんかしていない。俺達の中で決着はもうついている。それでもまだ苛付いているように見えるのは、見方がおかしいからか、全員まだこどもだからか、人間外の存在だからだ。
あー、帰りたくねえなあ。















そんなこと言ったって帰らないわけにはいかない。話はどうやら俺とマカの間で完結しているし、他人を巻き込むのも気分が悪い。気分が悪い職人様なんて売るほど見たが、今回は大枚はたいてでも解決しなきゃいけない問題だろう。しかも俺だけの力で。
午後の授業を全てサボったらしいマカの代わりに、俺は今日だけ真面目に受けた。帰宅時間をなるべく遅らせるためだが、とにかく憂鬱だった。マカのことだ、暴れたりはしていないだろうが、手をつけられない癇癪を起こしていたらどうしよう。
ドアを開ける瞬間、俺の心臓は全力で走った時みたいに高鳴っていた。このままだと死んでしまう。本当にさっさとどうにかなって欲しい。
「……ただいま」
「お帰りー」
声を上ずらせて室内に入ったのに、俺を迎えたのはいつも通りの環境だった。真っ暗でテーブルに突っ伏しているでも、暴れ疲れて寝ているでもないマカ。あえて言うなら食事を作っているが、凝ったものでもなく、どうやら昼食代わりの軽いものらしい。パンのにおいがした。
俺は拍子抜けする。
「おま……普通だな」
「普通ですよ。別に、何もないじゃん」
「いや、暴れ回ってんのかと思ったけど」
「そこまでじゃない。ブレアは出ていっちゃったけどね」
猫は空気を読まないが変化に敏感である。厄介事のにおいを嗅ぎ取り、今夜は避難することに決めたのだろう。俺だってそうしたい。ただ、まだ今のマカは、落ち着いているように見える。俺はゆっくり部屋に戻り、服を着替えた。いっそこのまま寝てしまおうかとも考えたが、あからさまに避けるのはマカにも悪い。かといって、普段どんな風に時間を過ごしてきたのか、さっぱり覚えがない。夕食にはまだ早いし、勉強なんてそもそもする気がない。
仕方なしに覚悟を決めて、部屋から出た。明るいリビングの奥で、マカは服も着替えずにフライパンをいじっている。いや、いじっている、のか?手は菜箸を握ったまま下ろされていて、火も止めたらしく焼ける音もしない。
まずい、しくった、完全に状況を読み違えた。何が普通だ、几帳面なマカが服も変えずに料理をすることがあったか?部屋が明るいから見逃していた。やばい、やばい、やばい。緊張してきた。厄介な話を聞くだろう予感。俺に直接的な害を与える話じゃないだろうに、一度盛り上がった心臓は戻ってくれない。
「ソウル」
ぎくっ。マカに聞こえたんじゃないかと思うくらい、脈拍が酷く高鳴る音がした。返事ができない。マカは低い声で続けた。
「ごめん」
「……は?」
「ごめん、本当にごめんなさい」
俺の理解が追い付かないまま、マカはごめんを繰り返す。その間こちらを振り向くことはない。菜箸でフライパンを叩きながら、何でもないように声のトーンを変えた。
「いや、あのさ、昼間もさ、ソウルと何かあったー、とか言われるからさ、あはは、ほんとに、申し訳なくて、さあ」
「…………申し訳ないとか」
「だから!だからさあ、ソウルも、まさか私と変な噂が立つとか、ね、嫌でしょ?そういうことだよ。だから、ごめんって言ってんの」
マカは乱暴に箸を置いた。言葉のそこここに苛立ちが見える。俺は何も言えないまま、馬鹿みたいに突っ立っていた。心臓の高鳴りは治まっていた。
何だ、何だ、何だあの生き物は。人間外だと思っている武器に、人間の感覚で気を遣う。さっきの台詞は、マカが職人でいることを否定したようなものなのに。職人を否定して武器を人間にしている。
意味がないことをしていると思う。時たまマカは酷く馬鹿げたことをしたがる。どうでもいいことに神経を遣う。武器は武器なのだ。もう人間じゃない。分かってると思っていたけど、職人だって人間じゃないのと同じで、理解に及ばない部分がある。
俺はその場から動くことはできないけど、声を出すことはできる。ひくついても掠れてもいない。想像以上に、いつも通りだ。
「いや、お前が謝るとか、そんなんおかしいだろ」
「何でよ。あんた嫌じゃないの?」
「だからさあ、嫌だとか嫌じゃないとかそういう話じゃなくてさ、マカ言ったじゃん、不愉快だとかそんな感じのこと」
「……言った、けど」
「そんだけだろ。周りが気持ち悪いんだろ。だったら見ないふりしてればいいじゃん。気を回すのは自分だけで十分で、こっちまで見ることはないよ」
「…………何その変な説教」
「説教に聞こえんの?」
「ソウルに言い負かされるとか、生涯の不覚だわ」
マカは恨みがましい目で俺を見た。あ、ようやく目が合った。その瞬間笑ってしまう。笑うしかない。ほんと、何を馬鹿なことをしてるんだか。
あはははと声を出して笑って、マカは目許を拭った。その手が顔から離れない。笑う声が段々に震え出す。マカの特技だ。笑いながら泣く。
「あは、あはははっ、はっ、じゃあ、さ、そうっ、るもさあ、これから、変な、ひっく、こと聞いても、はっ、無視しろよ」
「俺は最初からしてるもん」
「ははは、はっ、あは、そうだったね、そういえばそうだった」
マカはひゅーひゅーと肩で呼吸し、何回か深く息をついた。目を押さえるが、声の震えはなくなる。ちょっと低い。
「あは、あー、恥ずかしい」
「何を今更」
「それでも恥ずかしいの」
「はいはい、おめでとう」
「…………よっし!ご飯作るか!うん、何だか吹っ切れた!」
そうしてくれ。俺は肩の緊張をほぐしながら言う。随分長い間立ちっぱなしだった気がするが、十分もたっていないのだ。さすが、疲れる時間は長く感じる。
マカは菜箸を置いて、部屋に戻っていく。そうだよな、まずはいつものことをしてくれ。あと次からは分かりやすく苛立ってくれ。暴れてもいいし怒鳴ってもいいよ。無言だと何が何だか分からない。俺もマカも違う生き物だ。声に出してくれないと理解できない。
それにしても。そう、それにしても、マカの行動は意外だった。武器を武器として扱いながら、武器として見ていない。優等生だからなのか、馬鹿だからか知らないが、俺を中間に置いて満足する。引っかかったりはしない。そこが不思議だ。どちらかに分けてしまった方が楽に思えるけど。
俺はマカが置き去りにしたフライパンを覗く。すっかり冷めたフレンチトースト。側には材料も残っている。今日の夕食はこれか。職人様、手を抜きたい時の飯、それだけはほんとに分かりやすいね。





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