「お前もこりないねえ、毎回毎回よくここに来るもんだ」
椅子を占領して、鬼は退屈そうな声で呟いた。そっくりそのまま返してやりたい。
「うるさい。俺が来たくて来てるんじゃない。お前が出ていけばそれで済む話だろ」
鬼は深いため息を吐く。
「そいつは無理な相談だよ。だってオイラはお前そのものだもの。オイラが出ていくためには、それこそソウル、お前が全身の血を抜かないと駄目だね」
口ばかりぺらぺらとよく回る鬼である。俺が返答につまったのが面白いのか、鬼は椅子から飛び降りると、いつもの妙なダンスを踊りながらこちらに近付いてきた。
「そんなに身構えなくたっていいじゃねえの、オイラとお前は一心同体だ、仲よくいこうじゃない」
「誰が。それこそ死んだって嫌だね」
「おいおい、ここの主導権はお前が握ってるって前にも言っただろうに。ここはお前の世界、全てはお前の思い通りになるんだぜ?いいのかい?」
「意味が分かんねえ。世の中で自分の思い通りになることなんてあんのかよ」
「ここがまさにそうだ」
鬼はにやあ、と口を歪ませて笑った。ダンスをやめて、もう一歩俺に近付く。俺は動かないままなので、鬼の長い腕が今にも体に当たりそうになる。
「だってそうだろ?オイラがどうして喋れてると思ってるんだよ」
「お前がうるさいからだろ」
「違うね、ソウルがオイラに喋って欲しいと思ってるからだ。考えてみりゃ道理だろ、喋らずに初対面の野郎と意思疎通を図ることは難しいから、むしろお前がオイラを『口がきける』存在にしてくれたのはありがたいことだと思ってるんだぜ?」
「詭弁だ」
俺は首を振った。どうでもいいことだ。どうして今日に限って、こいつはこんなに俺に話しかけてくるんだろう。いつもみたいに黙っていればいいものを。
考えが分かったのか、鬼は急に言葉のトーンを落とした。囁くような声で言う。
「……なあソウル、オイラだって普段世話になってることの礼をしたいと思ってるんだぜ?だからこうやって妥協点を探してるんだ」
「お前が出ていくことが俺にとって一番嬉しいことだよ」
「言うねえ。だがそれはなしだ。それ以外で、お前が喜ぶことは何だ?ほら、想像してみろよ。『ここの主導権は、あくまでお前にある』んだぜ?ほら、想像もできないのかよ」
鬼はたたみかけるように近寄ってくる。細長い指が伸ばされて、スーツの端に触れる。思わず振り払って、鬼を正面から見て、ギョッとした。
「…………マカ?」
「ん?そうかい、これがお前の想像か」
いや、マカじゃない。ここに来る時のマカの姿じゃない。見た目はまるでマカのようだが、頭に歪な角がある。服装はダブルのスーツで、目が気持ち悪い三白眼だった。鬼だ。
「気色悪い真似すんじゃねえ。吐くぞ」
「オイラが望んでこうなったんじゃない、全てはソウル、お前のお望みだぜ?」
マカのような姿をした鬼は、鬼の声のままでそう笑った。そのあとで自分でも気付いたのか、何回か咳をする。
「ううん、うん、こんなもんかい。どうだソウル、お前の望んだものは出てきたかい」
鬼は顔も手で覆うと、手でごしごしとこすった。どかすと光が見えない目はなくなり、緑色の瞳が現れる。マカの目、マカの声、マカの顔だ。
俺は首を振った。気持ち悪い、いや、それ以前の感情がある。怖い。恐怖。圧倒的な恐怖だった。今までこの鬼のことを恐ろしいと思ったことなんてなかったのに。
何が怖いかなんて決まり切っている。自分自身だ。俺が望んだから、鬼はまるでマカのような姿を取る。『俺が望めば全てが思い通りになってしまう』。少なくとも、この部屋の中では。
鬼はニヤニヤと気味の悪い笑顔を浮かべながら(笑っているのはマカなのだが、本人の印象とは全く違っている)、じりじりとこちらに近寄ってくる。俺は後ずさった。鬼が、何をさせたがっているのか、手に取るように分かる。
「ん?んんん?これ以上は変えねえのか?他も全部変えようと思えば変えられるんだぜ。この邪魔くさい角だって取れるし、服だって、喋り方だって、いつもの私にできるんだよ?」
ゲラゲラゲラ。鬼は最後だけをマカの口調で言い、背中を丸めて笑った。
「でも今回はこれが望みか。ははっ!ソウル、お前マカにこういう服を着て、やってもらいたかったのかい?」
「違う、そんなこと思ってねえ」
「否定すんなよ、全部肯定しちまえって、なあ?折角の状況だぜ、楽しまなきゃ勿体ねえ」
鬼はいつの間にか俺の懐に入り込んでいた。体をぴったりと密着させている。マカの体だ。細くて、胸の感触は薄い。においまでする。俺は顎をそらせた。鬼は手を背中に回して、俺の首元に囁く。
「突き放したいんなら簡単にできるんだぜ。オイラはか弱い。無力だ。この部屋はお前の夢の部屋。今すぐ出ていくことだってできるのにねえ?」
「やめ、ろって、近寄るな」
「なのにお前はそれをしない!笑っちゃうねえ、やっぱりお前はさ、望んでるってことなのさ。オイラがどんな姿だろうと構わない。どこの誰だろうと関係ない。本当なら、最初っからマカの姿で現れてりゃよかったなあ?お前の中の黒血は、今の倍以上の速度で促進しただろうによ」
鬼は俺の首を噛んだ。鋭い痛みが走る。俺は動けない。そいつの言葉通り、突き放すことができない。手足は凍り付いたようで、鬼のなすがままにされている。何でも思い通りになるこの部屋で、自分の感覚だけがうまくいかない。
「ほら、マカにして欲しいことは何だ?言わせてみたい言葉は何だ?取って欲しいポーズは?見たい表情は?ぜえええんぶ簡単に実現するぜ。何故ならここは夢の部屋!安心しろよソウル、お前がここで何をしようと、大切なマカちゃんは傷付かないし、泣きもしない。まさに理想的じゃねえの!」
鬼は唇を舌で拭う。頬に点々と付いているのは俺の黒い血だ。黒い、黒い、少しも赤くない。俺の理想はこれなのか?全身を黒い血が流れる狂気にまみれた姿が?
鬼は俺の体に手を回したまま、ネクタイに歯をかけて緩めていく。ずりずりと首元を布がこすれる音がする。その下に見えたシャツにも歯を当てて、強引にボタンをちぎり取った。マカが絶対にしない服を壊す行為。ここの鬼は平気な顔でやっていく。平気な顔で傷付ける。
「おいおいポテンツ様、こんくらいで息上がるとかマジで勘弁してくれよ。まだオイラはなあんにもやってねえだろうが!」
鬼はまたゲラゲラ笑った。開いたシャツの隙間に顔を押し付け、傷の辺りまで舌を這わせている。その間も背中に回された手は離れず、背骨が折れそうな感覚がある。俺は全身が粟だって、とにかく逃れようと必死になった。ずり、と足を動かした先に何かが引っかかって、バランスを崩してしまう。
「ちゃあんと椅子があってよかったなあ?お前のご都合主義には本当に楽しませてもらってるわ」
鬼は顔を上げて口の端を吊り上げた。前にあったはずの椅子が、いつの間にか後ろまで移動してきていることを言っているんだろう。鬼は俺を椅子に押し込むと、自分は膝の上にまたがった。自由になった手で更にシャツのホタンを飛ばしていく。
「こんな傷、なかったことにできるんだぜ?そんなに再現したいのかよ」
「だ、から、触んな」
「声ヒクつかせて言ったって全然効果ないぜソウルさん」
鬼は冷たい手で胸の傷跡をなぞった。その顔はあくまで皮肉げに歪められていて、感情に流されることがない。
不意に、鬼は顔を上げた。手を腿に下ろし、俺を見上げている。普段のマカの姿に似ている。目が合う、そらさない。
「いけないいけない。お前も退屈だろう?オイラとしたことが、本来の目的を忘れてた。お前に礼をするんだったな」
そこまで言うと、細い手で俺の腕を掴んだ。ひょい、と何の躊躇いもなく、自分の胸にあてがう。というよりは押し付けている。目を見開いたまま、笑顔もない。
「どうした?触らねえのかい?」
「離せ、気色悪い」
「つまんねえ野郎だなあ、いつマカに愛想尽かされるか分かったもんじゃねえや」
鬼は退屈そうに顔を歪めると、動けない俺の指を、強引にネクタイに絡ませた。ぐいぐい引っ張って緩めると、次はシャツの上に置く。俺は手がぴくりと痙攣するのが分かる。
「ほら、ソウルさんよ、外してくれよ。そういうもんなんだろ?」
「やりたくないって言ってんだろ」
「いつ言った?ひと言も聞いてないねえ。簡単なことだろ、ほら、考えねえのかよ、一回も考えたことはないっつうのかよ?自分が、マカの、シャツの、ボタンを、外すところをさ」
鬼はにやにやと笑みを浮かべると、手を離して膝に戻した。俺の手は力を失っているはずなのに、同じように落ちることはなく、鬼の首元にとどまったままだ。震えている癖に、ひとつひとつ、上からボタンを外していく。完全に俺の意思からずれた動きだった。俺は知らずに首を振っていた。違う、違う、違う違う違う!!こんなことをしたいんじゃない!!
「よーくできました。さすがソウル」
はだけた胸をさらして、鬼は拍手でもせん勢いで笑った。当たり前のように、体はマカのものだった。色が白い。呼吸で上下する小さい胸。鬼は自分で胸に触れると、興味深そうに何回か揉む。
「小せえなあ。こんなんがいいのかい?ええ?ソウルさんよ」
そのまま目を細めて、鬼は体をこちらに寄りかからせた。俺の首に腕を絡めて、ずいと顔を近付ける。俺の声は完全に上ずっていただろう。
「やめっ、やめろっ!近寄んな!来るな!」
「酷いこと言うねえ、オイラはマカなんだぜ、キスは親愛の証だろうに」
「お前なんかに親愛があるかっ!!」
「酷えなあ」
鬼はニヤニヤ笑うだけだった。姿勢を直して、俺の話など全く耳に入れず、体を持ち上げる。唇が押し付けられて、強引に舌が入ってくる。どんな構造になっているのか、その舌はいやに長くて、俺は口内だけじゃなくて喉の奥まで舐められて、思わずむせてしまう。
咳をしようが鬼は口を離さない。にいっと目を細めて何回だって口付けた。舌だけでは足りないのか、最後には指を突っ込んで中をかき回した。
「ソウルぅ、顔がちょーエロいんですけど。こんなんいつもの私には見せないでしょ、何やってんの?」
鬼はベタベタになった指を俺の胸に押し付けながらそんなことを言う。すぐにはっと目を見開いた。自分の口にも手を入れて、舌を引っ張っている。
「ちょっとソウル!人の口調まで変えんなよ!『オイラ』の喋り方に戻してよ!あんたどれだけ『マカ』のこと意識してんの?私はマカじゃないってあんた自身が言ったんじゃん!」
ゲラゲラゲラゲラ!!
鬼は体をのけぞらせて笑った。部屋中に響くような大声である。シャツやスーツは肩からずれ、腕で留まっているような状態になっている。鬼は涙まで浮かべ、呼吸を荒くして手を付いた。
「あはっ、はははっ、おかしかったぁ、ふふふ、ソウルぅ、戻さないの?ねえ、このままやっちゃうの?『オイラ』じゃなくて『私』とやっちゃうの?ねえ、それでいいの?」
「ちが、違う、違う違う違う」
「何も違わないよぉ?私が『マカ』ならそれもいいや、どうせ戻らないんでしょ?あんたは『マカ』と楽しくやれるんだし、お礼になってるね」
鬼は腕を腰に当てて指を振った。ちっちっち、と口に出して言う。
「元々『オイラ』はソウルの頭の中にある存在、あんた自身みたいなもんだった。そいつが私みたいな姿、『マカ』みたいになることは、あんた自身はマカ本人と楽しんでるつもりなのかもしれないけど、『オイラ』、つまりソウル自身と楽しんじゃってることになるんだよ?だって私は私だけれども絶対に『私』じゃない。それはあんたも分かるでしょ?だってここは夢の部屋、あんたの思い通りになる部屋。でも分かってるでしょ?ここに作用するのはソウルの妄想だけで、現実のマカがここに現れてくれるわけじゃない。どんなに見た目と口調を似せても、私は『私』にはならずに偽者のまんま。それが楽しいって言うならそれでいいけど、ねえ?あんたはどうなの?今どう思ってる?」
鬼は首を傾けて問う。俺の首元に伸ばされた手は、途中でがくんと止まり、再び元に戻った。腰に手がいき、自分のベルトを外し始める。鬼は目を丸くして口を吊り上げた。
「おい、おい、おいおいおいおい!ソウル、私の質問に答えてよ!変なことやらせんなよぉっ!」
鬼の手は止まることがない。ベルトを外してズボンを緩めると、中に手を入れていじり始めた。膝にまたがっているせいで、薄い陰毛まで露出している。
鬼は胸も自分で揉みながら、それでも余裕のある声でにやついていた。
「マカのオナニーが見たかったの?本人に頼んでやってもらえばいいのに」
できるか、と答える俺の声は完全に掠れていた。
「やぁだあ、マカのここ、もうこんなにグチャグチャになっちゃってるよぉ、どうしたんだろうねえ?」
「い、ちいち、言うなっ……」
「教えてあげた方がソウルは楽しいんでしょ?あ、私いいこと考えた!『オイラ』は一回マカの中に入ったけど、それがすぐに消されなければよかったんだねえ」
「意味、意味が」
「想像してみぃ?マカもさ、あんたと同じように、ブラックルームを持ってる。そこにはあんたと同じように、『ソウル』が現れる。うふふふ、興奮しない?するでしょ?もしかしたらマカだって、あんたと同じようなことしてるかもしれないってことだよ!」
鬼は自分で言ったことに興奮してきたのか、肌を上気させて息を荒くした。乳首は両方ともピンとたち、そこをいじっては体をひねっている。マカなら、絶対にやらない。ここの『マカ』は行う。何故ならここは想像の部屋。実際にはありえない行為。
「いひぁっ、あんっ、やだっ、やだあっ、ソウル見ないでよっ!」
笑いながら、鬼はガクガクと身を震えさせた。膝の上で腰が跳ねる。首をのけぞらせて、襲ってくる快楽に耐えているようだった。叫ぶことはない。鬼の癖に、『マカ』の癖に!
「ふぁっ、はあ、ははは、やだぁ、もう、ひとりでイッちゃったよぉ、ごめんねソウル?我慢させちゃったね?お礼になってないなあ」
鬼は低い声でそう言うと、膝から降りて床に座り込んだ。俺のベルトに手をかける。何をする気なのか分かってギョッとした。背中を曲げて、鬼の頭を掴む。目を塞がれたのと頭が動かないのとで、鬼は一瞬停止した。すぐに口をねじ曲げて笑う。
「何だよソウル、あんたマカにはこんなことさせないんでしょ?だから夢の中だけでもしてあげようとしてんじゃん」
「やめろって言ってんだろうがッ!てめえはマカじゃねえだろ!」
鬼は黙り込んだ。肩と胸を露出させて、床に手をついたまま止まっている。
「おい、ふざけんじゃねえぞ?」
次に聞こえた声は、いつもの鬼の低い声だった。反射的に手を離すと、下から現れた目も、気持ち悪い三白眼に戻っている。鬼は片方の目を細め、眉を吊り上げて深いそうな顔を作った。いや、実際に苛立っているのだろう、出てくる声で分かる。
「オイラが誰かなんてどうでもいい話だろうが、ああ?何回言わせたら気が済むんだよ、そんなこと何の関係があるんだよッ!実際にてめえ自身はどうんだよ!気持ちよくなかったってのか?興奮しなかったってのか?勃起しといと生意気言ってんじゃねえぞクソガキがッ!!何の言い訳も許さねえ、やる権利もそもそもねえ、そんくらい分かってんだろうがよッ!」
鬼は息を荒くしてまくし立てた。苛々と髪をかきむしっているせいで、二つにまとめてある髪は角の部分でほつれかけている。
「いいか?オイラが、オレが、僕が、私が、何であるかなんてここじゃ全く問題にならない。知ってんだろうが。ここは夢の世界。全てがお前の構成物。オイラは私でもあるし、俺でもある。それを自分とは別個の存在にしてるのはお前の考えだけだ。それを否定してみろ、何が起こるか考えてみろ、それでも分かんねえのかよ」
「す、くなくとも、俺自身は今お前が喋ったことなんてひとつも考えてない。お前には別の意思がある。最初からそう言ってる」
「違う違う違う違う違うッ!!お前はなあんも分かってねえ!いいか、オイラは想像しろと言ったんだ!クソみてえな言い訳をしろとは言ってねえ!お前がお前自身を否定した時に、この顔はどうなると思うかって聞いてんだよッ!!」
ぐにゃり。
鬼の顔は俺からはっきり分かるほど、それこそ音を立てたように変化した。足下にうずくったまま、あああと低い声を漏らしてマカの顔を壊していく。
「おい、おいっ、何やってんだよ、やめろよ!」
顔が溶解していくその事実よりも、マカの顔がどろどろに崩れていくことが恐ろしくて、俺は必死で叫んだ。止まるはずはないと知っていたが、鬼の頭を掴んで上を向けさせる。
俺と目を合わせた顔は、気持ち悪く表情を歪めた、俺の、顔。
「こーゆーことになるんだぜえええ?」
「あっ、がっ、あああああ」
目を限界まで見開く。鬼は俺の顔と声でゲラゲラ笑う。振り払いたくとも、指一本動かせない。鬼はケタケタと歯をむき出しにすると、俺の額に思い切り自分のをぶつけた。思わず目をそらすと、唇が触れるほど近くに自分の顔がある。
「別にお前の存在意義だとか脳内会議だとかそんなもんはどうでもいい。セックスの最中に相手がコレになってみろ、一瞬で萎えて気持ちいいもんも消え去るっつうの。だから俺は何回も何回も言ってやったろォ?想像しろ!ここはお前の夢の部屋だってな。ほらほら、想像しろよソウル君。このまんまだと俺が俺を食っちまうぜぇ?どんな究極プレイだっつうの!」
鬼は目を三日月のように細めて気持ち悪く笑った。頭をそらさない、額を外さない。俺は背中を椅子にはばまれこれ以上後ろに下がれない。鬼はそれこそ呼吸をするように、俺と口を合わせた。
声にならない悲鳴。動くことができたのなら、相手の形が自分だろうと全く構わず串刺しにしていたに違いない。吐き気を伴う。とにかく早く、早く、一刻も早く振り払いたかった。頭を揺さぶるようにして鬼を引きはがす。
「……なんちゃって!分かった?私だよ!」
開いた目の先にあったのは、マカの顔、だった。さっきまでと同じ姿のマカだ。露出した肩、胸、肘にかかっている上着、ベルトが外れたズボン。俺の頬に両腕を伸ばす。柔らかく表情を崩した。
「全くクソインポ野郎が。早く終わらせたいのなんてこっちも同じなんだよ?私はマカちゃんじゃないもん。何回言ったら理解してくれるのかなあ。またこの形に戻してくれちゃってさあ、本物のマカはどこにいるのかなあ、私だって代わりたいんだよ?」
ふふふ、と鬼は穏やかに笑う。今までで一番含みのない笑顔だった。相変わらず冷たい、しかし滑らかな指が俺の顔を伝う。
「ねえ?ソウル、あんただって早く終わらせたいでしょ?いつまでも大切なマカちゃんの偽者に迫られてても仕方ないしねえ。あんたは妙に潔癖なところがあるから、マカにフェラさせたりはしない。それは私に対しても同じ。つまらない、本当につまんないわソウル。次からは元の私に戻してね?こんなこと、例えお礼であったとしても二度としたくないでしょ?」
鬼はこくん、と首を傾げた。俺の反応を待たず、腰を動かして膝から降りる。
「やっぱりズボンってよくないな。こういう時に限り、だけど。面倒だわ。ソウル、ベッド作ってよ、疲れちゃうから」
無表情のまま鬼は口早にそう言う。この狭い部屋の中にベッドなど置けるはずもないのに、現実のマカの数倍わがままだった。
勿論、このブラックルームで叶わない夢など存在しなかった。当たり前のように、俺が座っていた椅子は背もたれをなくし、スプリングがきいたベッドに姿を変えた。寄りかかっていた俺は背中から倒れ込むことになる。鬼はベッドの前に立っていた。服を全て脱ぎ捨てている。凹凸が少ないシルエットは完全にマカだった。頭から生えている角はやけに歪で巨大な形をして、影に見えている。
鬼は退屈そうに背伸びをした。ベッドにジャンプして飛び乗ると、子供のように跳ねている。数回で満足したのか、すぐに大人しくなって、俺の上に覆いかぶるようにして近寄ってきた。顔はいまだに無表情のまま、肌だってずっと冷たかった。
「ね、ソウル、ほら、早くやっちゃお?ここは夢の世界。あんたが思わないと先には進まない。あなたが考えなければ止まったまま。好きなように動かしてよ」
鬼はずりずりと額を俺の胸にこすりつける。その肩を掴んで、俺は鬼を引きはがした。無力だと言っていたが、確かに、何ひとつ抵抗はなかった。鬼はぽかんと目を開けた。
「え、なに」
「やめだ、もう嫌だ、沢山だ、どいてくれ、俺は帰る、こんなところ、もう一秒だっていたくない」
「………………」
お互いに沈黙。俺はぐいっと鬼を押しのけて起き上がる。嫌だ、嫌だ、嫌だ。もう沢山だった。何もかもが思い通りにいく世界が怖かった。自分の気持ち悪いところを根こそぎさらけ出されている気がした。俺が俺に言っている。『自分をよく見ろ!』
「もう十分だ、礼なんかいらない、二度といらない、マカの格好もするな、俺が考えただけでどうにかなる奴じゃない、お前もそうだ、このクソ鬼、金輪際、喋るな、動くな、意味分かんねえことしてんじゃねえッ!!」
鬼はぱくぱくと口を動かした。声が出ないのだろう。俺は口を歪めて笑ってやる。頭を抱えて耳を塞いで目を閉じる。さあ、さあ、さあ!俺をこの部屋から連れ出してくれ!
今すぐに!!
「ソウル?」
痛みがするくらい唐突に、俺は目を開けた。ここは、どこだ。今はいつだろう。どうやら寝ていたようだが、全身汗をかいたように濡れている。髪の毛が顔に張り付いて気持ち悪い。
「この時期に布団かけないで寝ると風邪ひくよ。いっつも薄着なんだからさ」
呆れたように続けているのはマカだった。場所は俺の部屋。時計を見ると、日付を丁度またいだところだった。
マカは普段着だった。ブラックルームのドレスでもなく、鬼のスーツでもない。頭から角も生えていないし、妙な三白眼でもない。マカだった。久しぶりに会ったような気さえする。
言われて初めて、俺はベッドにそのまま横たわっていたことに気付く。慌てて布団をひっつかみ前を隠した。いや、悲惨なことにはなっていなかった。とりあえず安心する。
マカは怪訝な顔でこちらを見る。
「何やってんの?また嫌な夢とか見たん?」
「うん、いや、何でもない、多分」
さすがに本人の前で、どんな夢を見たかなんて言えるはずがなかった。目をそらしつつ言い訳すると、マカは不満そうに眉をひそめたが、 深くは聞かないことにしてくれたらしい。一回ため息をつくと、穏やかな表情になる。
「じゃあ私戻るから。こっちまで聞こえるような唸り声出さないでよ」
「あ、ああ、うん、ごめん」
「何もないならそれでいいってば」
マカは軽く笑った。俺もちょっと笑う。歩き出そうとするマカの手を掴んでこちらに引き寄せた。バランスを崩して倒れるマカを正面からきつく抱き締める。マカはうあああと低い声を出した。
「呼吸が苦しいですよ」
「ごめん。人肌落ち着く」
「まじでどんな夢見たんだよ」
「怖い夢」
「泣いちゃうくらい?」
「泣いちゃうくらい」
マカはふうん、と囁き、体をもぞもぞ移動させて楽なポーズになった。手を俺の背中に回す。
「泣くんだったら綺麗に泣けよ?鼻水とかやだからね」
「もう泣かねーし」
「弱虫が言ってんな」
人間の体温は人を落ち着かせる。俺の場合はマカがそれであって、頭の中の妄想は地獄でしかない。全てが思い通りになる世界より、自分の体が自分の意志で動かせる方がずっとましに決まっていた。この現実が好きなんだ。
2008:12:25